2016年8月19日金曜日

労働せずに生まれた価値は誰のもの?

労働すれば価値が生まれる。たとえば絵を描けば、それは労働によって価値を生み出したことになる(売れるか売れないかは別として)。だから労働によって価値は生まれる。そしてその価値は労働した人のものだ。

しかし、労働しなくても価値は生まれる。たとえば海の幸、山の幸は誰が労働しなくても、自然に生まれてくる。海の貝や木の実は労働によって生まれているのではないが、価値がある。では、それは誰のものか?誰のものでもない。だから誰が採取しても良いわけだし、みんなで分け合うべきものだ。労働することなく生み出された価値は、みんなで分け合うべき。誰もがそう思うだろう。

では、人工知能や自動生産機械が高度に進化して、誰が労働しなくとも、自動的に食料や衣類を生産するようになったら、その食料や衣類は誰のものか?誰のものでもないはずだ。だからみんなで分け合うべきなのだが、なぜか違和感を覚える人がいるだろう。なぜか?そう、その人工知能や自動生産機械を誰が所有しているかを問うからだ。だが、それはおかしくないか。

もし海も山もすべて私有地であって誰かのものであれば、自然に生まれてくる海の幸も山の幸もすべて所有者が決まっており、誰もそれを分けてもらえない。自然に生まれてくるにも関わらず、自然の恵みはあらかじめ所有者が決まっていることになる。しかも未来永劫に地球が崩壊するその日まで。

同じことは人工知能や自動生産機械にも言えることだ。誰かが人工知能や自動生産機械を所有していれば、それらが自動的に生産する食料や衣類はすべて所有者が決まっていることになる。しかも未来永劫に機械が壊れる日まで。

もし、それを認めるとすれば、人工知能や自動生産機械を所有する者がすべてを所有し、それ以外の人は何も得られないという事態が生じる。これでは経済が成り立たなくなるのは明白だ。だから人工知能や自動生産機械は公的に所有するべきだとすぐに気付くだろう。生産手段の共有化だ。つまり、人工知能や自動生産機械が高度に進化した未来社会において、生産手段の私的所有は、一部を除いて意味を失うだろう。

もちろん、これは未来の話ではあるが、現在が過去と未来の中間点であることを考慮するなら、こうした現象はすでに進行中であり、それが社会に「貧困や格差」という矛盾を生み出しつつあると考えるのが自然だと思う。