2020年9月12日土曜日

消費税のパラドックス

 財務官僚は愚かです。「消費税は社会保障のための恒久財源になる」と言ってます。彼らはおそらく短絡的に、こう考えているのでしょう・・・「財源を所得税にすると、高齢化により労働人口が減少し、すなわち納税者数が減少し、税収が減る。消費税なら労働者だけでなく高齢者や未成年からも徴税できるので、労働人口が減少しても納税者数が減ることがなく、税収を確保できる」と。まさに愚かである。

 直接税(所得税)であろうと間接税(消費税)であろうと、労働人口が減少すれば税収は減少する。なぜなら、税の出どころの大部分は、労働者の賃金だからである。

 そもそも家計に徴税して、それで社会保障(年金制度)を運用システムとは、どういうものか?シンプルなモデルで考えてみましょう。まず、年金生活者が居ない場合の経済を考えてみます。企業で労働者が働いて財を100生産したとします。仮に労働分配率が100%だとすると、労働者には100の賃金が支払われます。これにより、労働者は企業において生産した財100をすべて購入・消費することができます。おカネ100は企業に戻ります。

 さて、年金生活者がいる場合の経済を考えてみます。税の種類は結果的にどれでも同じです。何らかの税によって、労働者の賃金100のうち、30を政府が徴税します。その30を年金生活者に支給します。企業が生産する財は100でしたね。そこで、労働者は徴税後の所得である70のおカネを使って70の財を購入・消費し、年金生活者は年金である30のおカネを使って30の財を購入・消費します。これで生産された財100はすべて売れて、おカネ100は企業に戻ります。

 これがシステムの本質的な部分になります。そうでなければ、システムが成り立ちません。おカネが「企業→消費者→企業」のように循環しなければ経済が成り立たないからです。税制の種類にかかわらず「社会保障は労働者が負担する」という本質は同じであり、その出どころは労働者の賃金なのです。では、税制によって何が違うのか、と言えば、所得税の場合は賃金から徴税され、消費税の場合は買い物をする際に徴税されます。どの段階で課税されるかの違いだけであり、結果として、年金生活者に年金30を支払うためには、どのような税制においても、労働者から30の税金を徴収することになります。

 従って、直接税であろうと間接税であろうと、労働人口が減少すれば税収は減少することが直ちに理解できると思います。もし、そうでなければ、奇妙な現象が起きてしまいます。

 未来の社会においては、高齢化のみならず、人工知能や完全自動生産工場の普及によって、労働人口はますます減り続け、最終的にはすべての労働を機械が担うようになると、労働者数はゼロになってしまいます。この場合でも、財務省の理論によれば、消費税はすべての人が払うわけですから、税収が確保できる、と財務官僚は言うでしょう。さて、では、いったい誰が誰の社会保障を支えていることになるのでしょうか?これが破綻していることは、先ほどのようなおカネの循環を考えれば、直ぐにわかります。「企業→消費者→企業」というおカネの循環が存在していないのです。

これは「消費税のパラドックス」とでも呼ぶべき現象です。

 もちろん、これは労働人口の減少が究極まで進んだ状態ですから、実際にはそんなことは生じません。しかし、時代は労働人口が減少する方向に進むのは避けられないため、時間とともにシステムに歪みが生じてくることは確実でしょう。具体的には、消費税をいくら上げても税収が減少するようになります。最終的に労働人口がゼロに近づくにつれ、消費税率は無限大になり、税収は限りなくゼロに近づき、まあ、それ以前のどこかの時点で社会保障は破綻するでしょう。これが財務省の言う「恒久財源」の正体です。

消費税を財源とする社会保障制度は、将来において必ず破綻する。

 では、なぜ消費税に固執するのか。消費税は強制的に物価を引き上げ、購買力を低下させる機能があります。ですから、年金生活者にも容赦なく課税することで、彼らの購買力を引き下げ、実質的に支給額を抑制するのと同等効果があると考えられます。つまり、年金は支給するが、そのうちの何割かを税によって吸い上げてしまうわけですから、消費税が増税されればされるほど、実質的な年金支給額は減少すると言えます。悪質な財務官僚の考えそうなことですね。


2020年8月31日月曜日

コロナ経済危機の真相とは?第12回

 現代における共同体としての企業

 少々余談になりますが、共同体という考えも捨てたものじゃない、という話をしてみます。共同体の経済、分配型経済などと聞くと、現実離れした架空の話に聞こえるかもしれません。今日の経済は市場経済、交換型経済であり、分配の経済などあり得ないと。しかし、現代社会でも分配型の経済は当たり前のように存在しています。意識したことがないため、気付かないだけです。それは「会社(企業)」です。

 会社は共同体に近いシステムです。会社に所属する社員は、製造部門・営業部門・管理部門など、それぞれに役割を分担し、売り上げの獲得に向けて共同で作業します。そして会社として獲得した利益から、各社員に給料が支払われる(分配される)形態をとります。社員に支払われる給料は、建前上は分配ではなく、契約に基づく支払いではありますが、実質的には利益の分配です。だから労働分配率などと言ったりしますね。とりわけ日本人は共同体意識を強く感じる民族のようで、会社に帰属意識を感じますし、会社は株主のものというより、「自分の会社」という意識が強いと言われます。

 会社は共同体としての性質があります。例えば、全国に5つの営業部門があったとして、その1つの営業部門が何らかのトラブルに巻き込まれて売り上げがゼロになってしまったとします。それでも、その営業部門の社員の給料がゼロになってしまうことはありません。逆に、ある営業部門がずば抜けて高い売り上げをあげたからといって、その営業部門だけ極端に給料が増えることもありません。これが、もし交換型の経済であったなら「敗者は淘汰」「勝者総取り」になるはずです。もちろん、会社は雇用形態によって性質が変わりますので、「敗者は淘汰」「勝者総取り」という会社もあるでしょうが、そういう極端な会社は日本では少ないのではないでしょうか。もちろん日本も徐々に欧米型の経済社会になりつつあるため、人間を一つの労働資源として、機械の構成パーツのように、必要に応じて付けたり、不要になったら即座に外したりできるような会社を目指しているのかも知れませんが。

 では、共同体である企業の内部は市場原理が働かないため、トライ&エラーが行われなくなって技術の進歩が停滞してしまうのでしょうか?あるいは社員の意欲が低下するのでしょうか?そうではありません。人事考課制度を用いることで、社員の成果や能力に応じて昇給や昇進を行うことで対処しています。こうしたマネジメントが今日はかなり発達してきましたから、共同体であっても常に新しい物事にチャレンジし続ける社風があり、高いモチベーションを維持しています。

 また、近年はグローバル化とともに企業の吸収・合併が盛んにおこなわれるようになり、巨大企業が続々と増えてきています。こうした巨大組織は、昔の時代であれば、それこそ一つの国と言えるほどの規模だと思います。そして合併して巨大化した企業の内部システムは共同体に近いものになっており、そこには分配型の経済の性質があるわけです。それほど巨大であっても問題なく機能しているのであれば、分配型の経済も機能しうるということではないでしょうか。そして、組織というのはどこまで大きくなりえるのでしょうか。仮にすべての民営企業が合併してしまったら、それは政府による国営企業と何が違うのでしょうか?実際には合併して企業数が減りすぎると、競争が生じなくなって独占の弊害が生じてしまいますので、そこまで極端なことは起きませんが。

 何が言いたいのか、と言えば、交換型経済のシステムと分配型経済のシステムは、そもそも混在しているのではないかと感じるのであり、もしそうなら、交換型経済のシステムと分配型経済のシステムは、もっと積極的に機能的に混合できるのではないかと思うのです。分配型のシステムも交換型のシステムも、必要があって自然発生的に生まれたシステムであって、どちらか一方を切り捨ててしまうべき性質のものではないはずです。だからこそ現代社会においても、その両者が混在していると考えられます。

 人類の歴史において、共同体の経済は最初に生まれたと考えられ、その形態が数十万年にわたって続いたとすれば、それは人間の本能のレベルを構成する遺伝的要素として私たちに刻み込まれているはずです。すなわち、共同体として生存するための本能です。例えば他を思いやる気持ち、集団への帰属意識、共同作業の喜び、皆から認められたいという欲求、命に代えても共同体を守ろうとする闘争心など、そうした精神構造は共同体とともに存在したはずです。そして、その精神構造は、今日になっても人々の意識を本能的に強く支配します。

 その後、人口の増加や集団の巨大化、生産性の向上に伴って、交換型の経済のウエイトが高まるにつれて、それが人間の社会にも大きな影響を及ぼし、昔ながらの共同体という社会は崩壊してゆくわけです。社会は赤の他人の集合体によって構成され、交換による利害関係だけで時に集まり、時に解散します。交換経済における人々の関係性は「交換」であり、「協働」ではありません。そして交換に値するモノを持つものだけが生存のために市場で交換ができるのであって、交換できるものを持たないものは、そもそも市場において存在価値を持たない。生存価値がない。そういう冷淡な社会になりました。しかし、そうした構造こそが、敗者を淘汰し、勝者による独占を通じて高い生産性と合理的な資源配分を実現するのです。それでもなお、人間の本能はたかだか数千年で変わるはずもなく、共同体の本能と生産性重視の市場経済の間で葛藤が生まれ、人々の精神を苛み、ストレスや過労、自殺など多くの不幸を生み出していると思うのです。

 市場経済システムは淘汰や排除を当然とするシステムであり、それなしには成り立たない。同時に極めて非人間的で多くの人を不幸に落とすことは避けられない。ゆえに、市場経済システムを全体として包み込むことのできる共同体の経済、分配の経済が同時に必要となると思います。

 それをセイフティーネットと表現することもできますが、セイフティーネットという言い方は、個人的には、「市場経済の落ちこぼれ者を救う、お情け政策」のように聞こえるので、あまり好きではありませんね。最終的に未来の社会では、生活のための生産活動はすべて自動化されて、人々は自動生産された消費財の分配によって生活するようになるのですから、その言い方は意味を失います。つまり、ほとんどすべての人が、今日的な意味では「失業」するのですから。

 社会とは、全体として人々の共同体であるべきであって、共同体から誰かを淘汰・排除するべきではありません。余程の貧しい社会でない限り、すべての人々がその共同体で普通に生きて行けることが社会の条件でしょう。しかし現代の社会は、完全雇用の状態を維持しなければ、生存できない人が必ず生じる仕組みになっています。これでは将来的に労働の大部分が自動化された時代には、社会の崩壊が免れません。人工知能や完全自動生産技術が急速に進化し続ける今、時代はすでに新しい仕組みを必要としているのです。

まあ、コロナ災害の問題から、ここまで考える人は誰もいないでしょうが(笑)


全文はサイトに掲載しています。https://sites.google.com/site/nekodemokeizai/


2020年8月30日日曜日

コロナ経済危機の真相とは?第11回

 交換型経済と分配型経済は一長一短

 と、ここまで読まれますと、分配型の経済は人間的で理想的なシステムである一方、交換型の経済は他人の不幸など無関係の、冷酷な経済システムという印象を持たれると思います。実際にそうなのですが、しかし、その見方は一面にすぎません。それぞれの経済システムには、それぞれの長所と短所があります。これまで述べたことは「交換型経済の短所」と「分配型経済の長所」でした。では、「交換型経済の長所」と「分配型経済の短所」を考えてみましょう。

交換型経済の利点

 交換型経済すなわち市場経済の長所には、高い生産効率や早い技術の進歩があります。その原動力になるのが、いわゆる「市場原理」です。なぜ市場経済では高い生産効率を実現できるのでしょうか。それは、試行錯誤(トライ&エラー)を繰り返すことによって、より効率的な生産主体が、独占的に生産を担うようになるからです。

 例えば農産物を生産する場合を考えてみましょう。最初は数多くの農家が、それぞれに農産物を生産しています。それぞれの農家はそれぞれにやり方が異なるので、生産効率の悪い農家も生産効率の高い農家もあります。農家全体で見ると、平均値としての生産効率はそれほど高くありません。市場経済の場合、生産効率の高い農家があるとすれば、この農家は、他の農家よりも多くの農産物を生産できますので、市場において、より安く農産物を売ることができます。同じ品質であれば、市場では安い商品の方が良く売れます。すると、生産性の高い農家の農産物の売り上げが増加し、生産性の低い農家は売り上げが減少して、生産性の低い農家は廃業するでしょう。すると廃業した農地を生産性の高い農家が取得し、生産性の高い方法で生産をするようになります。このようにして市場経済では、生産性の低い主体が淘汰され、生産性の高い生産主体が生き残り、独占的に生産を行うことによって、農家全体として高い生産性を実現します。

 生産効率だけではありません。よりニーズにマッチした製品もまた、市場原理によって登場してきます。例えばスマホの市場には、初めは多くの企業が参入するでしょう。しかし市場では、より消費者のニーズにマッチした商品が売り上げを伸ばしますので、消費者のニーズを捉え切れなかった企業は倒産します。ただし、最初から消費者ニーズを的確に把握できることはありません。そこがトライ&エラーであって、新規に市場に参入する企業数が多ければ多いほど、ヒット商品を生み出す可能性は高くなりますし、トライ&エラーが少なければ、優れた商品はなかなか登場してこないでしょう。そして、より商品開発力の高い生産主体が独占的に生産を担うことで、より多くのすぐれた製品を生産することができます。

 こうした市場原理は、利用できる資源の量が少ない場合はとりわけ有効です。資源の量が少なければ、それだけ高い利用効率が求められるからです。効率の悪い生産主体、ニーズの低い商品に資源を配分するのではなく、より生産効率の高い生産主体や優れた商品を生産できる主体に限られた資源を分配する方が、より多くの成果を得ることができます。

 これは「敗者を容赦なく切り捨てる」「市場弱者は淘汰される」という、非常に冷酷な行為があって初めて可能になることであって、つまり、他人が生きようが死のうが知ったことではない、赤の他人が集まった自己責任社会だからこそ可能だ、とも言えるわけです。ところが、これが人々の共同体の社会となると、そんなことはできません。

配型経済の欠点

 一般に共産主義あるいは社会主義の社会では、生産主体は政府、つまり「国営」になります。そうなると、市場経済のように複数の企業が競争を行うことはありません。そのため、トライ&エラーの機会が非常に少なくなります。そもそも、生産技術にしても商品開発にしても、何が正解であるかは、誰にもわかりません。多数のチャレンジの中から、結果として優れたモノが生き残ることが進歩を促進するので、チャレンジの数が少なければ、技術の進歩はなかなか進まないわけです。分配型の経済は共同体なので、生産性の低い生産主体、顧客ニーズの低い生産主体であっても、生産現場からご退場いただくのが難しい。また、過去の共産主義では、そもそもご退場いただくためのシステムが欠落していたのではないかと考えられます。「競争=悪」と考えたり、「成果とは無関係な悪しき平等主義」によって、効率性が損なわれたのでしょう。

 また、国全体が一つの巨大な国営企業になると、そこには巨大な「官僚組織」が生まれます。官僚は前例主義であって、新しいことにチャレンジすることはありません。また、内部の権力闘争・利害調整に多くのエネルギーが費やされるようになり、国民のための資源配分の最適化であるとか、成果物の最適配分であるとか、利便性の向上であるとか、そんなものより、省益や出世などが優先されるようになります。また人間関係のしがらみがシステムの運営にゆがみをもたらします。つまり生産と分配が、恣意的に操作されるようになります。一言で言えば、官僚制は「必ず腐敗します」。それは旧ソビエトや中国共産党で明らかでしょう。日本の官僚も同じと考えられます。

 なお、価格決定における市場の役割は非常に重要であって、市場抜きに価格を決めることはほとんど不可能です。価格を設定しなければ、貨幣を用いた分配システムは機能できません。市場原理(需要と供給のバランス)を無視して価格を決定すると、物価は安定しますが、必ず過不足が生じてしまいます。とりわけ希少品の分配は難しくなり、抽選でもしないかぎり不可能でしょう。分配型経済であっても、市場を無視することはできないと考えられます。

 このように、交換型経済にも分配型経済にも長所と短所があります。ですから、交換型経済あるいは分配型経済のどちらかに偏ることなく、それぞれの長所だけを生かし、短所をカバーするように両方のシステムをバランスよく利用することが、人々に高い満足度をもたらすと思われます。


全文はサイトに掲載しています。https://sites.google.com/site/nekodemokeizai/


2020年8月29日土曜日

コロナ経済危機の真相とは?第10回

 第二章 コロナが明かす、市場経済の光と闇

コロナ経済危機は市場経済だから起きる

 さて、ここで経済システムについて、もう少し深く考えてみましょう。コロナ経済危機は現在の経済システムが市場経済システムだから起きるのであって、仮に経済システムが共産経済(※下記)であったなら、そうした問題は起きません。といっても、大部分の国民は何のことかさっぱりわからないと思います。なぜなら、ほとんどの皆さんは、市場経済と共産経済の仕組みの違いを何も理解していないからです。市場経済と聞けば、民主主義とか自由とか私有財産を思い浮かべるでしょうし、共産経済と聞けば、一党独裁政治とか私有財産の制限とか、そういう表面的な印象を思い浮かべるに過ぎません。しかし市場経済と共産経済の最も大きな違いは、市場経済が「交換型経済」であり、共産経済が「分配型経済」であることです。両者を簡単に説明すれば、交換型経済とは、それぞれの経済主体(個人や企業)がそれぞれに生産した財(モノやサービス)を互いに交換することで成り立つ経済であり、分配型経済とは、それぞれの経済主体がそれぞれに生産した財を、全員に分配することで成り立つ経済のことです。それぞれ、コロナ経済危機と絡めつつ、違いを考えてみましょう。

(※)ちなみに中国(中華人民共和国)は共産主義と思われていますが、現代の中国は共産主義ではありません。中国共産党による一党独裁の市場原理主義国家であり、国家資本主義とでも呼ぶべきシステムです。共産経済のシステムはみじんもありませんので、あらかじめご確認ください。

交換型経済(市場経済)

 市場経済とはどんな経済でしょう?それは「個別生産と交換」を基本とします。例えば魚を取る人(漁師)と農産物を生産する人(農夫)、がいて、それぞれはまったくの他人であって、彼らは共同体を形成しているわけではなく、同じ集落や同じ国である必要もありません。そして、漁師はもっぱら魚を捕り、農夫はもっぱら農産物を生産します。そして、それぞれが生産した財である「魚」と「農産物」を交換することで、互いの生活を豊かにすることができます。この交換活動が市場と呼ばれます。昔は文字通り、市場という場所に商品を持ち寄って交換していましたが、現在の取引は必ずしも特定の場所を必要としませんので、取引活動を総称して市場と呼ばれます。この経済システムでは、互いに交換するための、何らかの財をそれぞれが生産することを前提として成り立ちますので、何も生産できない人は必然的に市場から除外されることになります。

 このシステムにおいて、仮に何らかの理由で漁師が魚を取れなかったとします。すると漁師は市場で何も交換することができませんので、最悪の場合、漁師は何も手にすることができずに餓死することになります。一方で、農夫は農産物をいつもと同様に収穫しますが、市場で交換相手となる魚がありませんので、農産物は余り、腐って捨てられてしまいます。つまり、漁師が餓死する傍らで、農産物が余って捨てられてしまうわけです。この経済では、社会の人々はあくまで赤の他人であり、共同体ではありません。赤の他人が生きようが死のうが、基本的には関係ありません。これが自己責任社会です。

 さて、これをコロナ経済危機に当てはめて考えてみましょう。今回のコロナ災害の場合、感染を恐れて人々が外出を控えたり、政府が感染拡大防止の観点から、国民に外出の自粛を求めたりしました。その結果、飲食店などに来店するお客様が激減して、外食産業の売り上げが壊滅的な状況になってしまいました。外食産業は先ほどの例で言えば「漁師」に該当します。そのため、外食産業に従事していた人々は、所得の低下や解雇を余儀なくされます。

 外食産業は、外食サービスという財を生産し、それを市場で販売しています。市場において外食サービスとおカネを「交換」するわけです。お客さんが来店しなくなるということは、外食サービスの生産ができなくなることと同じです。外食産業のようなサービス業は製造業と違って、事前に商品を生産しておくことができず、顧客が来店して初めて生産されるので、少し特殊な性質があります。いずれにしろ、市場で交換するための財を生産できなくなるため、外食産業に従事する人々は、市場でおカネを得ることができなくなってしまいます。おカネが得られなければ、生活に必要な資材を市場で買うことができず、外食産業に従事する人々の生活が破綻します。

 さて、コロナ災害では最初に外食産業がダメージを受けますが、この段階では他の産業、農業や製造業などにほとんど影響はありません。外食産業は、先ほどの例で言えば「農夫」に該当します。食料品や日用雑貨、衣類などの生活必需品は、これまでと同じように潤沢に生産され、小売店にも商品が潤沢にあります。

 ところが、外食産業に従事する人々の所得が減ると、それらの人々の購買力が減りますから、食料品や衣料品、電化製品、雑貨などの売り上げが減少してしまいます。すると、農業や製造業でも売り上げが減少するため、それらに従事する人々の所得が減少します。そのため、それらの人々の購買力も低下して、社会全体として売り上げが減少してしまいます。ここで注目すべきなのは、最初の段階では、外食産業だけに生産の低下が起きるのですが、それが農業や製造業の生産も引き下げる結果になるということです。農業や製造業に何の問題も発生していないにも関わらず。そして経済全体が貧しくなる。

 再び、先ほどの例で考えてみましょう。はじめは、漁師が100の魚を生産し、農夫が100の農産物を生産していました。それぞれ自分たちが食べる量を50とすると、それぞれ50の生産物が余剰になります。この余剰の生産物を市場において、それぞれ交換することで、それぞれが50の魚と50の農産物を手に入れることができました。この時点における社会全体の生産量は魚100+農産物100=200です。

 ここで何らかの問題が生じて漁師の魚の生産がゼロになってしまうと、市場で交換するモノが何もなくなるので、漁師はそれまで手に入れていた農産物を手に入れることができなくなります。一方で、農夫は100の農産物を生産できますが、50は余剰生産分ですので、市場で交換したいのですが、交換相手である魚がありませんので、交換できません。そのため、50の農産物はやがて腐って捨てられることになります。この時点における社会全体の生産量は魚0+農産物100=100です。

 こうなると、農夫は生産するだけ無駄なので、農産物の生産量を50に引き下げてしまいます。生産能力はあるのですが、市場に交換する相手がないので、生産を止めてしまうわけです。この時点における社会全体の生産量は魚0+農産物50=50です。このように、魚の生産量が100減少すると、その影響は魚の生産にとどまらず、農産物の生産量も50に低下してしまいます。特定の産業に問題が生じると、それが連鎖的に社会全体の生産を縮小してしまうのです。

 もちろん、これは2つの産業からなる単純化モデルであって、実際の社会では様々な産業があるわけなので、ここまで極端になることはありません。しかし市場経済には、連鎖的に社会全体の生産を収縮してしまう性質を有することは間違いない事実でしょう。

 その例として有名な現象が「デフレスパイラル」です。多くの人々は、所得が減ると生活防衛のために財布の紐が固くなり、消費を減らして貯蓄を増やそうとします。多くの人が消費を減らすと、企業の売り上げが減少してしまいます。そのため、企業は経営が苦しくなり、従業員に支払う給料を引き下げざるを得なくなり、企業で働く人々の所得が減少します。そして所得が減少した人々は、ますますおカネを使わなくなる。すると、ますます企業の売り上げが減る。こうして、経済がどんどん縮小するのが、デフレスパイラルです。市場にはこのような性質があるため、新型コロナウィルスによる活動自粛は、連鎖的に経済活動全体を縮小へと向かわせる傾向があります。

 そして、ここには大変に重要なことがあります。この生産の縮小は、災害や戦争などによって生産能力が破壊されるために起きているのではない、という点です。仮に災害や戦争によって生産設備が破壊されることで生産不能になったのなら、生産量が減って人々が貧しくなることは避けられません。しかし、コロナ経済危機はそうではありません。生産能力に問題が生じるのではなく「売れないから、意図的に生産を止めてしまう」ことによって生じます。生産能力は何らダメージを受けていないのですから、生産すれば国民が貧しくなることはありません。しかし、作らないのです。「売れないから作らない」という理由で国民全体が貧しくなるのは、非常に馬鹿げた現象です。しかし、市場経済ではそうしたことが当たり前のように起こります。

分配型経済(共産経済)

一方、共産主義に近い考え方である「分配型経済」では、そうした連鎖的な経済の縮小は起きません。なぜでしょうか。次にそれを考えてみましょう。

 なお、最初にお断りしておきますが、私は本書において「だから共産主義は正しい」とか「資本主義を捨てろ」と主張するつもりは毛頭ありません。そうした急進的な社会改革は、まず成功しません。そうではなくて、現在の経済システムをより優れたものに改善するためのヒントを、他の経済システムからも貪欲に学ぶべきだとの立場です。最初から否定して目を背けるだけでは、何も学習できません。功罪を正しく理解する必要があります。

 分配経済は「共同生産と分配」を基本とします。それぞれの経済主体(個人や団体)が共同作業で財を生産して、それを集めて分配する経済です。それらの経済主体は赤の他人ではなくて、共同体を形成しており、密接な関係にあります。その原点は原始共産制の社会にあります。はるか昔の時代、人々は集落を形成し、集落単位で狩猟採取や原始的な農作業を行い、生活していたと考えられます。これが共同体です。そうした時代では、共同体の構成員である人々は共同あるいは分業で生産活動を行っていたでしょう。ある人は海に魚を捕りに行き、別の人は村の畑で農作物を栽培するわけです。そして、それぞれが収穫物を持ち帰り、集落の構成員で山分けにするわけです。これが共同生産と分配の経済です。

 こうしたシステムでは、仮に何らかの理由で魚が取れなかったとしても、魚を捕る役割を担っていた人が飢えることはありません。なぜなら、生産物をみんなで山分けにするわけですから、仮に魚が取れなかったとしても、畑で採れた農作物はすべての人に平等に分配されます。それぞれが生産したモノを交換するのではなく、みんなに分配するのですから、この社会に飢える人は出ません。そもそも共同体なのです。共同体の構成員を飢えさせるわけには、いかないのです。もちろん、怠け者に分け前は与えられないかも知れませんが。

 現代社会において分配型の経済が体現されるとすれば、どんなシステムになるでしょうか?今日、世界のほぼすべてが市場経済システムであるため、確たることは言えません。一つの考え方を示します。分配型の経済は社会全体が大きな共同体であるため、すべての個人や企業は共同体の管理主体であるところの政府に属することになるでしょう。巨大な国営企業にすべての人が就職しているようなものです。ですから、生産主体が生産した商品はすべて政府に集められ、それを政府が販売する形になるでしょう。それぞれの人は、それぞれの仕事の役割や成果に応じて、政府から給料を受け取って、それを用いて政府から様々な商品を買うわけです。このようなシステムであれば、おカネは常に政府から各個人に支給されますので、失業する人は誰もいませんし、生活に困窮する人は誰もいなくなるわけです。

 さて、これをコロナ経済危機に当てはめてみましょう。外食産業が自粛や政府の休業要請によって壊滅的に売り上げが減少したとします。交換型経済では、社員への給料は企業の売り上げ金の中から賄われますので、企業の売り上げがゼロになると、給料が一円も払えなくなります。一方、分配型経済の場合、給料は政府から出ますので、今までと同じように支給されます。なぜなら、政府は外食産業以外の産業で多数の売り上げを有していますし、また、政府は通貨を発行する権限も有していますので、社員に給料を払うためのおカネが不足することはありません。従って、外食産業の売り上げが壊滅状態になったとしても、外食産業に従事する人々の給料が減ることはなく、その悪影響が経済全体に連鎖することはありません。

 最初の例で考えてみましょう。はじめ、魚を捕る人が100の魚を捕り、農作業をする人が100の農産物を収穫し、それを集めて、それぞれに魚50と農産物50を分配していました。この段階における生産量は魚100+農産物100=200です。一方、何らかの理由で魚の収穫がゼロになってしまったとしても、農産物100をそれぞれ50ずつ分配します。こうすると農産物が余ることはありません。この時の生産量は魚0+農産物100=100です。農産物100が余ることなく消費されるので、生産量が減らされることはありません。このように、分配型の経済の場合は、どこかの産業分野で問題が生じたとしても、その影響が他の産業に連鎖して、経済全体が縮小へ向かうことはありません。

 以上の考察より、もし、今日の経済システムが市場経済であり、かつ、コロナ感染拡大の影響によって外食産業の売り上げが壊滅的な状態になったとしても、分配型経済と同じように、それらの企業や従業員に対して、政府から必要十分なおカネが給付されるのであれば、連鎖的な経済縮小を防ぐことができることが理解されると思います。だから給付金が必要とされるのです。給付金の目的は困っている人を助けるためとか、そういう感情的な意味ではありません。経済システムの維持のためにおカネを給付するのです。

 「なぜ自粛によって経済がダメージを受けるのか?」。多くの国民はこのことを「自粛で売り上げが減るんだから、経済がダメージを受けるのはあたりまえ」程度にしか考えていないでしょう。しかし、これは現在の市場経済システムに組み込まれている性質によるものです。なぜこうした事態を引き起こすのかよく考えないと、問題の本質を理解することはできません。そして問題の本質を理解できなければ、効果的な対策を考えることはできないでしょう。

全文はサイトに掲載しています。https://sites.google.com/site/nekodemokeizai/


2020年8月25日火曜日

コロナ経済危機の真相とは?第9回

 アフター・コロナは「無人化」と「給付金」

 「コロナ後の新しい生活様式(ライフスタイル)を守りなさい」と、政府や識者が、マスコミを通じてさかんに人々に呼び掛けています。ウィルスの感染を防止しながら、同時に社会活動・経済活動を行うと言います。しかし、コロナ後の世界を生きるには、新しい生活様式だけでは十分と言えません。新しい生活様式と同時に、新しい「生産様式(プロダクトスタイル)」が必要です。新しい生産様式とは「無人化」です。

 なぜ、無人化が必要なのか?もし、将来的に、致死率50%を超えると言われる鳥インフルエンザ・ウィルスのような感染症が流行した場合、コロナウィルスよりさらに強く社会活動・経済活動を制限する必要が生じると考えられるからです。そうなると、生活必需品の生産にすら支障をきたす恐れがあります。一方、人間が働かなくても、ロボットや完全自動生産工場が人々の生活必需品を自動的に生産できる体制が整っていれば、安心です。仮に大部分の人が自宅で待機していたとしても、少数の人々が生産活動するだけで、生活必需品の供給は確保できます。

 また、生産と同時に物流の無人化も重要です。いくら人工知能や完全自動生産工場があったとしても、生産のための資源を工場に届けなければ何も生産できません。同時に、生産された財を消費者に届けるための小売りについても、宅配の無人化が必要になります。生活必需品を買うために、人々がスーパーやコンビニなどの店舗へ行けば、感染拡大のリスクがありますので、自宅に待機したまま、自宅で必要な生活必需品を注文し、受け取ることができるシステムが必要です。

 また、医療などのサービスについても、離れた場所からリモートで対応できるようなシステムができれば良いでしょう。病院へ行かなくとも、各家庭に基本的な検査機器があれば、インターネットで受診することもできるでしょう。また、介護なども人工知能ロボットの訪問による対応が可能になれば、介護士を介した感染リスクを抑えることができます。こうした遠隔操作技術の進歩により、人間が直接そこへ行って接触しなくとも、様々なサービスを提供できるシステムの開発が待たれます。

 このように、「人間の労働を必要としない経済システム」が経済の根本に据えられるなら、経済活動を気にすることなく、感染症対策を徹底することができますから、パンデミックリスクに対して、非常に強い社会になります。もちろん、人間の労働が不要になれば、大量の失業者が生まれますから、働かなくても国民におカネを給付する「給付金制度」が必要になります。無人化された生産システムで生活に不可欠なモノやサービスを生産し、その分配のために、国民におカネを給付する。それが経済の基本部分になるわけです。このシステムは、生活のための基本的な生産と分配が無償で提供される社会を実現します。人類が目指すべき社会形態の一つでしょう。コロナ災害を機に、こうした未来社会の実現へ向けて前進するならば、まさに一石二鳥、災い転じて福と成すことになるでしょう。

 繰り返しますが、生産活動が無人化されたからといって、怠惰で退廃的な社会になったり、人間の活動が意味を失って、無感動で無関心な社会になったりすることはありません。無人化は、生活必需品の生産のための半強制的な労働を不要にするだけであって、人々はそれ以外の活動、例えば様々なスポーツ、芸術、趣味あるいはボランティア活動など、自主・自発的な活動にますます打ち込むようになるでしょう。今日の社会のように、大部分の人々が生活のために自分の夢をあきらめて、賃金を得るためだけに単純でつまらない労働に耐えるだけの生涯を送る、そんな必要はなくなります。

全文はサイトに掲載しています。https://sites.google.com/site/nekodemokeizai/