2021年10月24日日曜日

与野党の政策論争は、財政均衡の掌で踊るだけ

 与党も野党も「分配」を言い出したことで、分配をめぐって政策論争になっている。互いに「成長なくして分配なし」「分配なくして成長なし」と言い争っているが、そこに、お呼びじゃない財務省や御用学者が口を出してきて、ほとんど三つ巴のお笑い劇場である。しかし、彼らはすべて「財政均衡主義」という掌の上で踊っているに過ぎない。

 ところで、マスコミは盛んに「バラマキ合戦」などと批判はするものの、与野党のバラマキの違いがどこにあるのか、冷静に考えているとは思えない。分配の政策は手法によって幾つもの種類があり、その方法によって、日本経済にまったく異なる影響をもたらす。そうした論考を抜きにして、やれ分配やら成長やら論じるのは、ほとんどナンセンスに思われる。

1)野党の「分配」は再分配を意味している

 マスコミは、なんでもかんでも「分配」と一括りに扱っているが、野党の主張する分配とは、再分配のことである。野党は大企業や富裕層の課税を強化し、そこから得た税収を、低所得層などへ分配する政策を主張しているからだ。これは分配ではなく「増税による再分配」である。分配と再分配は大きく異なるが、マスコミは何も考えずに「分配」と表現しており、これは重大な間違い、または意図的世論操作であると言える。

 野党の主張は「分配なくして成長なし」ではなく、「増税による再分配なくして成長なし」なのである。確かに、富裕層や大企業が使わずにため込んでいるカネを増税によって回収し、消費意欲の高い低所得層に再分配すれば、消費が拡大することで、経済が成長する可能性はあるだろう。ただし、企業や富裕層への課税強化は、富裕層の消費や大企業の投資を減らしてしまう点には注意が必要だろう。

 一方で、防衛費を削減したり、公共インフラ保全のための財政出動を削減するなどの政策転換が行われないとも限らない。旧民主党時代の「コンクリートから人へ」の前例もある。なぜこうなるのかと言えば、野党が「財政均衡主義」だからである。国家予算が税収の範囲に限られると信じ切っているため、こっちを増やすためには、あっちを切るしかない(ゼロ・サムゲーム)、となるのである。

 そして、野党は財政均衡主義に固執しているため、やがて「消費税の増税」に踏み込むのではないかとの懸念が払しょくできない。コロナ対策のため期限付きの消費税減税を行うというが、その間の穴埋めの財源として国債を発行するという。国民におカネを撒くことは良いのだが、結局のところ「財政均衡(プライマリーバランス)」にこだわれば、やがて借金を返すための「大増税時代」がやってくることは目に見えている。消費税増税はしないと言いながら、掌を返した旧民主党・野田政権の前例がある。目の前の「再分配」だけを論じても、不十分なのである。

2)与党の「分配」は企業頼み

 与党・自民党の「分配」は、企業の賃上げ頼みの分配論である。政府が分配するわけではない。与党は、増税を原資とした再分配には否定的で、それは「金融所得課税の撤回」に表れている。税を取らないのだから政府が国民におカネを配ることはできない、だから、代わりに企業に賃金を上げさせようという話になる。そのために、賃上げに応じた企業の税を軽減したり、景気刺激のための財政出動を行うというのである。企業頼みの分配政策なのだから、企業の売り上げが増加する、つまり、経済が成長しなければ分配は不可能であり、その意味では「成長なくして分配なし」は、彼らの政策からすれば当たり前なだけである。「成長なくして分配なし」が正しいのではなく、彼らの方法論では「成長しなければ、分配できない」だけの話である。

 しかし、成長しなくても分配は可能である。それが再分配であり、野党の主張がそれである。野党の分配は「再分配」を意味しているし、与党の分配は「企業の賃上げ」を意味しているのだから、野党と与党の主張がかみ合うわけがない。

 与党の分配はすべて経済成長の成否にかかっている。成長しなければ分配できない方法論だからだ。安倍政権の時代にも、企業に賃上げの要請を行っており、「官製春闘」と揶揄されたが、結局はそれと同じことをやろうという話である。では、与党の政策で経済が成長できるのか?アベノミクスで10年近くやってきたが、どれほど経済が成長しただろうか?確かにアベノミクスによって経済は成長したが、ほとんど雀の涙のような話である。まったく「力強さに欠ける」。金融緩和頼みでは、カタツムリのような成長速度しか期待できないことが明らかになった。だから財政政策にもっと力を入れなければならないことは明らかである。

 しかし、与党・自民党もまた「財政均衡主義」である。国家予算が税収の範囲に限られていると信じ切っているため、財政出動を行うにも腰が引けているのである。乾ききった畑に多少の水を撒いても、すぐに蒸発してしまう。どうせ撒くのなら、じゃぶじゃぶになるほど撒かないと、作物は育たない。財政がどうのこうのと、言っている場合ではないのである。自民党が財政均衡主義を脱しない限り、彼らの政策には何の期待も持てないのである。それどころか、中途半端に財政出動しても効果が無く、国債の残高だけが増加するという「悪循環」に陥る恐れが極めて大きい(実際、すでにそうなっている)。その先に待ち受けるのは、「デフレ不況+増税地獄」である。

3)財務省を潰せば、与党も野党も丸く収まる

 財務省を潰せば与党も野党も丸く収まる。といっても、財務省を建物ごと爆破するという物騒な話ではなく、たとえ話である。つまり「財政均衡主義」を脱すれば、与党案も野党案も、それはそれで丸く収まるのである。

 野党の分配は「増税による再分配」であり、富裕層の消費や大企業の投資を抑制する恐れもあるのだが、これを再分配ではなく、「通貨発行(=国債の日銀引き受け)による分配」に改めることで、こうしたリスクを抑えることができる。また、防衛費やインフラ投資もいままで通りに維持、あるいは拡大が可能になる。当然ながら、野田政権のように「増税を決められる政治」「ブレない増税」とか言って、増税に猪突猛進する必要もなくなるのである。そして、低所得層をはじめとする消費意欲の高い人々に現金を給付することで消費が拡大すれば、企業の売り上げが増加し、企業利益を押し上げ、利益は再投資へと振り向けられることになる。経済は確実に成長へと向かうはずだ。その意味で「分配なくして成長なし」で良いのである。

 一方の与党・自民党の分配は「経済成長に伴う賃上げ」であり、ここでも「通貨発行(=国債の日銀引き受け)による大胆な財政出動」が極めて重要になる。中途半端で小出しの財政出動ではなく、本当に大胆な財政出動と金融緩和を同時に行うことで、企業の売り上げを増加し、企業利益を押し上げ、再投資や賃金の増加へ繋がることになる。例えば100兆円規模の大胆な財政出動により、成長と分配の好循環を止まらないほど加速してやることができる。十分に加速してやれば、この車輪が簡単に止まることはないだろう。

 つまり、野党案でも与党案でも、どちらも「財政均衡主義」から脱することで、政策として十分に魅力的になるのである。野党案は需要サイドからの景気刺激であり、与党案は供給サイドからの景気刺激となる。個人的には、消費者視点から言えば、国民におカネを撒く方を支持する。野党案も与党案も、財政均衡主義から脱しない限り、その先にあるのは増税地獄か、はたまたデフレ地獄か、あるいは両方である。

4)現代資本主義は、誰かが借金を負わなければ経済が麻痺してしまう

 財政均衡主義から脱するためには、政治家だけではなく、国民も金融の基本システムを正しく理解していなければならない。その仕組みとは「世の中のおカネはすべて借金から作られる」という事実である。これを理解していないと、容易に財政均衡主義の妄想に囚われ、デフレ経済不況の泥沼へ沈んでゆくことになる。

 経済活動のためにはおカネが必要であり、経済活動が活発になればなるほど、経済活動にはより多くのおカネが必要になる。一方、世の中のおカネはすべて借金から作られているのだから、経済活動が活発になればなるほど、世の中の借金は増えなければならない。借金が増えなければ、おカネも増えないのだから当然である。

 これは、逆に言えば、借金が増えなければ経済成長できなくなることを意味する。にわかには信じがたいかも知れないが、日銀の行っている金融緩和・金利政策とは、それに基づいた政策である。日銀は市中銀行の貸出金利を下げる政策を行う。それによって、企業が銀行から借金を増やすことで、世の中のおカネの量を増やし、経済を動かそうとする政策である。日銀は借金を増やす政策を行っている。すなわち、現代の資本主義経済は、すべて借金に依存しているのである。

 誰かが借金を負わなければ、経済は麻痺してしまう。おカネが無くなるからだ。では、誰が借金を負うべきなのか?景気が良い時は、主に企業や家計が借金を負うことで、経済を回している。景気が良ければ企業や家計が借金を負っても、返済は比較的容易である。だから企業も家計も借り入れやローンを組んで、借金を増やす。それによって世の中のおカネの量も増える。それが景気を支え、景気を拡大する。しかし、景気が悪くなると企業も個人も借金を減らそうとする。これは当然である。しかし、世の中の借金が減ると、世の中のおカネの量も減るため、ますます景気が悪くなるのである。とはいえ、景気が悪いにもかかわらず、企業や家計に無理矢理に借金を増やさせることはできない。だから、一旦、景気が悪くなると、どんどん景気が悪くなってしまう。

 誰かが借金を負わなければ、経済は動かない。おカネが足りなくなるからだ。では、誰が借金を負うべきなのか?もし、企業や家計が借金を負わないのであれば、政府が借金を負うしかない。企業も家計も借金を増やさず、しかも政府も借金をしないのであれば、経済は果てしなく縮小を続け、日本経済は荒廃するしかない。そして、財政均衡主義とは、政府の借金を否定する考えである。プライマリーバランスを黒字化するとは、「政府は借金をしません」という意味である。経済が不況の時にこれをやれば、日本経済が荒廃に向かって縮小を続けることは、火を見るよりも明らかだ。その根本的な原因は、現代の金融のシステムがそうなっているからに他ならない。借金が良い事か、悪い事か、という道徳や会社経営の話とは、まったく別次元の問題なのである。残念ながら、物事の善悪や会社経営を基準とした価値観では解決不可能である。

 だが、こんな基本的なシステムでさえ、財務官僚はまともに理解していないし、政治家もマスコミの論者も、あるいは、一部の経済学者も理解していない。おそらく日本国民の90%の人々も理解していないだろう。こんなことでは、まともな経済論争などできるわけがない。つまり、選挙の論戦など茶番劇に過ぎないということだ。

 金融システムをまともに理解していない政治家やマスコミが、やれ分配だ、やれ成長だと騒いだところで、ピンぼけの、ナンセンスな議論に過ぎない。そこに「お呼びじゃない財務省」がしゃしゃり出てきて財政破綻論をぶち上げる始末なのだから、日本の政治はドタバタお笑い劇場と化しているのである。金融に関する無知から生まれる財政均衡主義に固執する限り、日本の未来は絶望的だ。