2020年8月31日月曜日

コロナ経済危機の真相とは?第12回

 現代における共同体としての企業

 少々余談になりますが、共同体という考えも捨てたものじゃない、という話をしてみます。共同体の経済、分配型経済などと聞くと、現実離れした架空の話に聞こえるかもしれません。今日の経済は市場経済、交換型経済であり、分配の経済などあり得ないと。しかし、現代社会でも分配型の経済は当たり前のように存在しています。意識したことがないため、気付かないだけです。それは「会社(企業)」です。

 会社は共同体に近いシステムです。会社に所属する社員は、製造部門・営業部門・管理部門など、それぞれに役割を分担し、売り上げの獲得に向けて共同で作業します。そして会社として獲得した利益から、各社員に給料が支払われる(分配される)形態をとります。社員に支払われる給料は、建前上は分配ではなく、契約に基づく支払いではありますが、実質的には利益の分配です。だから労働分配率などと言ったりしますね。とりわけ日本人は共同体意識を強く感じる民族のようで、会社に帰属意識を感じますし、会社は株主のものというより、「自分の会社」という意識が強いと言われます。

 会社は共同体としての性質があります。例えば、全国に5つの営業部門があったとして、その1つの営業部門が何らかのトラブルに巻き込まれて売り上げがゼロになってしまったとします。それでも、その営業部門の社員の給料がゼロになってしまうことはありません。逆に、ある営業部門がずば抜けて高い売り上げをあげたからといって、その営業部門だけ極端に給料が増えることもありません。これが、もし交換型の経済であったなら「敗者は淘汰」「勝者総取り」になるはずです。もちろん、会社は雇用形態によって性質が変わりますので、「敗者は淘汰」「勝者総取り」という会社もあるでしょうが、そういう極端な会社は日本では少ないのではないでしょうか。もちろん日本も徐々に欧米型の経済社会になりつつあるため、人間を一つの労働資源として、機械の構成パーツのように、必要に応じて付けたり、不要になったら即座に外したりできるような会社を目指しているのかも知れませんが。

 では、共同体である企業の内部は市場原理が働かないため、トライ&エラーが行われなくなって技術の進歩が停滞してしまうのでしょうか?あるいは社員の意欲が低下するのでしょうか?そうではありません。人事考課制度を用いることで、社員の成果や能力に応じて昇給や昇進を行うことで対処しています。こうしたマネジメントが今日はかなり発達してきましたから、共同体であっても常に新しい物事にチャレンジし続ける社風があり、高いモチベーションを維持しています。

 また、近年はグローバル化とともに企業の吸収・合併が盛んにおこなわれるようになり、巨大企業が続々と増えてきています。こうした巨大組織は、昔の時代であれば、それこそ一つの国と言えるほどの規模だと思います。そして合併して巨大化した企業の内部システムは共同体に近いものになっており、そこには分配型の経済の性質があるわけです。それほど巨大であっても問題なく機能しているのであれば、分配型の経済も機能しうるということではないでしょうか。そして、組織というのはどこまで大きくなりえるのでしょうか。仮にすべての民営企業が合併してしまったら、それは政府による国営企業と何が違うのでしょうか?実際には合併して企業数が減りすぎると、競争が生じなくなって独占の弊害が生じてしまいますので、そこまで極端なことは起きませんが。

 何が言いたいのか、と言えば、交換型経済のシステムと分配型経済のシステムは、そもそも混在しているのではないかと感じるのであり、もしそうなら、交換型経済のシステムと分配型経済のシステムは、もっと積極的に機能的に混合できるのではないかと思うのです。分配型のシステムも交換型のシステムも、必要があって自然発生的に生まれたシステムであって、どちらか一方を切り捨ててしまうべき性質のものではないはずです。だからこそ現代社会においても、その両者が混在していると考えられます。

 人類の歴史において、共同体の経済は最初に生まれたと考えられ、その形態が数十万年にわたって続いたとすれば、それは人間の本能のレベルを構成する遺伝的要素として私たちに刻み込まれているはずです。すなわち、共同体として生存するための本能です。例えば他を思いやる気持ち、集団への帰属意識、共同作業の喜び、皆から認められたいという欲求、命に代えても共同体を守ろうとする闘争心など、そうした精神構造は共同体とともに存在したはずです。そして、その精神構造は、今日になっても人々の意識を本能的に強く支配します。

 その後、人口の増加や集団の巨大化、生産性の向上に伴って、交換型の経済のウエイトが高まるにつれて、それが人間の社会にも大きな影響を及ぼし、昔ながらの共同体という社会は崩壊してゆくわけです。社会は赤の他人の集合体によって構成され、交換による利害関係だけで時に集まり、時に解散します。交換経済における人々の関係性は「交換」であり、「協働」ではありません。そして交換に値するモノを持つものだけが生存のために市場で交換ができるのであって、交換できるものを持たないものは、そもそも市場において存在価値を持たない。生存価値がない。そういう冷淡な社会になりました。しかし、そうした構造こそが、敗者を淘汰し、勝者による独占を通じて高い生産性と合理的な資源配分を実現するのです。それでもなお、人間の本能はたかだか数千年で変わるはずもなく、共同体の本能と生産性重視の市場経済の間で葛藤が生まれ、人々の精神を苛み、ストレスや過労、自殺など多くの不幸を生み出していると思うのです。

 市場経済システムは淘汰や排除を当然とするシステムであり、それなしには成り立たない。同時に極めて非人間的で多くの人を不幸に落とすことは避けられない。ゆえに、市場経済システムを全体として包み込むことのできる共同体の経済、分配の経済が同時に必要となると思います。

 それをセイフティーネットと表現することもできますが、セイフティーネットという言い方は、個人的には、「市場経済の落ちこぼれ者を救う、お情け政策」のように聞こえるので、あまり好きではありませんね。最終的に未来の社会では、生活のための生産活動はすべて自動化されて、人々は自動生産された消費財の分配によって生活するようになるのですから、その言い方は意味を失います。つまり、ほとんどすべての人が、今日的な意味では「失業」するのですから。

 社会とは、全体として人々の共同体であるべきであって、共同体から誰かを淘汰・排除するべきではありません。余程の貧しい社会でない限り、すべての人々がその共同体で普通に生きて行けることが社会の条件でしょう。しかし現代の社会は、完全雇用の状態を維持しなければ、生存できない人が必ず生じる仕組みになっています。これでは将来的に労働の大部分が自動化された時代には、社会の崩壊が免れません。人工知能や完全自動生産技術が急速に進化し続ける今、時代はすでに新しい仕組みを必要としているのです。

まあ、コロナ災害の問題から、ここまで考える人は誰もいないでしょうが(笑)


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