2014年10月15日水曜日

経済は「貨幣の流れ」と「財の生産と分配」を分けて考える

最近とくに痛感する事があります。それは、経済現象を観察する際、経済にかかわる事象を「貨幣の流れ」と「財の生産と分配」の側面に分離し、別々に考える視点がとても有効であるという点です。そして、そののち、この両者を統合する方法を考えることで、問題解決を導くという考えです。

そのような視点から観察すると、経済問題を論ずる際に一般的な識者やマスコミの主張・論評は、そのどちらかが抜けている、あるいは「おカネの話」として、両者がごちゃまぜになってしまっているように見えます。なぜ、そんな事を思うようになったか?それは消費税増税と社会保障(年金)に対する一般的な識者やマスコミの話をよく観察することから着想したのです。

多くの識者やマスコミが騒ぐのは、年金の財源です。これは「貨幣の流れ」に関する部分です。経済におけるすべての活動は貨幣の循環に乗るかたちで機能します(市場経済)。そのため、年金財源も、どこからどのように貨幣を集めて、どこへ流すかという仕組みが必要となり、その仕組みについての議論が盛んになされますが、しかし良く考えてみると、これは「貨幣を流す仕組みの問題」に過ぎない事がわかります。

ところが、実際に老後の生活を支えるのは貨幣ではなく「財(商品やサービス)」です。いくら貨幣の流れを整えたところで、財の生産が十分にできないのでは、高齢者の生活を支えることなどできません。日本国内において、財の生産に必要十分なだけの生産力(輸入・輸出もふくめ)がなければ、そもそも年金財源など無意味な議論に過ぎないと、気が付いたのです。

そして、年金財源など「貨幣の流れ」は制度(お約束)の問題に過ぎず、財源とは「帳尻さえあえば良い問題に過ぎない」と気が付いたのです。帳尻を合わせる手法など、いくらでもあります。消費税の増税にこだわる必要など、まったくないのです。年金の本質的問題はそんなことではなく、むしろ財の生産力を、日本の社会にどう維持、拡大させるかにある事に気が付くのです。

そして、このような「貨幣の流れ」と「財の生産と分配」を明確に分離し、貨幣の流れとはあくまでも「帳尻を合わせる目的に過ぎない」と割り切る考え方は、年金財源だけでなく、他の経済活動に関しても利用できることがわかってきました。

この考えを一言で表せば、「経済を考える際に、おカネを除外して、モノの生産と分配で考える」ことです。おカネに目を奪われて本質を見失うことを防ぐのです。おカネに囚われておカネに振り回される事なく、経済の実体から考えるのです。

おカネとはモノの生産と分配を円滑に行うための道具であり、もし、モノの生産と分配が円滑に進まないのであれば、おカネの流れの仕組み、約束を大胆に変えればよい、という結論に至ります。国民は、おカネの仕組みに縛られるのではなく、おカネの仕組みを支配しなければなりません。