2020年1月31日金曜日

コロナ騒動に見る現代資本主義の欠陥

中国発の新型コロナ肺炎ウィルス騒動によって、世界経済が大きな悪影響を受けるとマスコミが報道しています。最も卑近な例を挙げるなら、観光産業への影響です。中国からの観光客の減少により、観光産業の売り上げが減少し、景気に悪影響を与えるというのです。

つまりこうです。新型コロナウィルス騒動によって中国からの観光客が減ると、観光産業を中心に売り上げが減少し、そこに関連する人々の所得を押し下げ、購買力を減らします。すると、それらの人々の消費が減り、社会全体としての消費も落ちてしまう、というわけです。つまり観光産業から連鎖的に社会全体の景気が悪くなる、ということです。

では、なぜこんなことになるのか?

こうした災害に伴う不況の問題は、今回のような伝染病に限らず、様々な災害などの場面においても生じる現象です。例えば台風による広域災害、猛暑あるいは雪不足のような問題です。それらが景気を悪化させるのです。しかし、その原因について根本的に、あるいは経済の原点に立ち返って考えるような記事は、マスコミにはまったく見られません。お決まりの、どこかに書かれてあるような常識論が語られるだけです。しかし、経済のシステムの本質的な視点からこの現象を考えるなら、おそらく、現代資本主義の欠陥部分に行き着くのではないか、と思います。

現代の資本主義社会は市場経済であり、市場経済は、その原点が「交換によって成り立つ経済システム」「交換経済」です。つまり、それぞれの経済主体が生産した財(モノやサービス)を交換することでなりたちます。ということは、交換するための何かが常に必要であることがわかります。

そして、もし、ある経済主体が何らかの原因(災害など)によって財の生産ができなくなると、たちまち、この「交換システム」は機能不全になります。

例えば、AさんとBさんがいて、Aさんがお米を100生産し、Bさんがお魚を100生産し、互いにお米とお魚を50ずつ交換して生活していたとします。ある時、大干ばつがこの土地を襲い、Aさんはお米がまったく取れなかったとします。すると、AさんはBさんからお魚を得ることができなくなります。一方、Bさんはいつも通りにお魚100を生産しますが、Aさんがお米と交換できないため、取れた魚100のうち50は腐って捨ててしまいます。

はて、これがあたりまえなのでしょうか?今のマスコミに問えば「あたりまえ」「しかたない」と答えるでしょう。しかし、少し考えてみてください。

小さい頃、みなさんは、学校で「社会はそれぞれの人が分業して必要なものを生産しているのだ」という風な話を聞かされてきたのではないでしょうか。あるいは、なんとなく、そのように思い込んできたのではないでしょうか。社会は共同体であると。分業とは、互いに生産したものを分け合うことが前提となります。もし、みんなが必要とするものを、みんなで分業生産してるのだとしたら、仮にそのうちの誰かの生産が滞ったとしても、基本的には分業に携わってきた以上は、生産された財が、その人にも分配されるはずです。

例えば、今日では「会社」がこれに当たります。同じ会社に属して、様々な仕事を分業しているのですから、仮に会社のある収益部門の売り上げが何らかの理由で一時的に減少したとしても、その収益部門だけ報酬がなくなる、なんてことはありません。なぜなら、会社のような組織は「分業と分配」が基本システムにあるからです。もちろん、ある収益部門が慢性的に売り上げが少ない場合は、商品や販売組織の改変が必要なのは言うまでもありません。そうではなく、短期的な話です。つまり、一時的な生産の変動に対して、こうした「分業と分配」のシステムは、安定的であるという点が重要になりますです。

では、分業と分配という考えに基づいて、前例におけるAさんとBさんの場合について考えてみましょう。社会が生産共同体であるなら、Aさんはお米の分業を担ってきたと考えられます。そうなら、たとえ不運にしてAさんが干ばつでお米が生産できなかったとしても、Bさんの生産したお魚のうち、50がAさんに分配されるでしょう。そうすれば、生産されたお魚は無駄になりませんし、Aさんもお魚を得ることができます。これが分業と分配です。

ところが、現代の資本主義社会では、そうはなりません。BさんがタダでAさんにお魚をあげるのは「損した」ことになるわけです。なぜなら、頭が「交換経済」という考えに支配されているため、交換するものもないのに、与えることはできない、となるわけです。先ほどの会社の話を聞けば、会社組織における「分業と分配」には、みなさん、それなりに納得する点があると思うのですが、こと、市場における「交換経済」になると、「損した」となるわけです。常に交換するもの、代価がなければ成り立たない、これが市場経済の欠陥であり、それを前提として成り立つ現代資本主義の欠陥でもあるわけです。

つまり、子どもの頃に聞いたことがある「社会はそれぞれの人が分業して必要なものを生産しているのだ」は、実は嘘だったことがわかるのです。社会とは、実は、協働の場ではなく、交換の場に過ぎなかったわけです。あるいみ、それはコミュニティとは無縁の、何か殺伐とした無機質の機械のような印象を与えます。

一方で、社会主義(あるいは共産主義)の考え方は「分業と分配」であり、仮に何らかの災害によって、生産ができなくなってしまったとしても、その人たちにも、きちんと分配がされることになります。ただし、分業と分配に基づく社会主義経済は、市場の働きを無視する側面があるため、生産システムとして、資源の最適配分の機能に支障をきたすことは言うまでもありません。つまり、「交換の経済」と「分業と分配の経済」には、それぞれに一長一短がある、両者ともに不完全なシステムである、と考えられます。

では、現代資本主義の社会において、これに何らかの改善策はないのでしょうか?

実は、貨幣経済には、こうした市場経済の欠陥を和らげる働きがあります。市場経済は交換経済であり、基本的には生産した財を互いに交換することが求められます。しかし、貨幣経済においては、交換するものが財(モノやサービス)である必要はないのです。つまり、貨幣と交換することを介して経済が成り立つため、仮に財がなくても、貨幣があれば経済が機能することがわかります。これがいわゆる「売り上げ」です。

もちろん、これらの貨幣は、最終的には財と交換されることで、貨幣を仲介した財と財の交換を成立させるのですが、そもそも、貨幣の多くはため込まれて交換に利用されない場合も多いため、こと「交換」に関しては、ゆるい、タイムラグのある働きをしています。つまり、貨幣とは、交換経済において緩衝材のような性質も備えていると考えられるのです。

例えば、先ほどの例で言えば、仮にAさんがまったくお米を生産できなかったとしても、Aさんにおかね50があれば、それをBさんのお魚50と交換することで、Bさんは「損した」気分を味わうことなく、喜んでAさんにお魚50を渡すでしょう。だから経済が機能するのです。もちろん、実際にお米の生産が減っているわけですから、経済全体としての財の総生産は減っています。しかし、おカネさえあれば、災害が多方面に連鎖的に悪影響を与え、経済全体が悪化する事態は避けることができると考えられます。

つまり、Aさんがお金持ちであれば、経済への悪影響は軽減されます。貯蓄や内部留保をため込んでいる場合です。しかし、今の日本では貯蓄のない人も多いでしょう。資本主義社会では、災害保険がそれを補う働きをしています。仮に干ばつでお米が生産できなかった場合でも、Aさんが保険金として貨幣を外部から調達できるなら、影響は軽減されます。

しかし、保険はそれなりに高額ですし、すべての人が、そうした保険に加入するほど貨幣的な収入に余力があるとは限りません。今日のような慢性デフレ不況の状態では、ぎりぎりで、なんとかやりくりしている人も多いでしょう。ですから、自己責任だけで災害による不況を防ぐことは現実的とは思えないのです。そして、貨幣の調達は何も保険金に限る必要はありません。政府から調達することも可能なのです。

にもかかわらず、財務省は、なにかといえば「財源がない」と言ってカネを出し惜しみする。ゆえに、ウィルス騒動によって売り上げが落ち込んだ観光産業の人々の購買力が低下し、消費が落ち込み、それが引き金となって経済全体が連鎖的に不況になる。おそらく、緊縮と財政再建を企む今の官僚大国日本では、それが避けられないのです。実にばかばかしいと思います。

保険に頼ることなく、社会全体としてこうした事態に対応するために、政府が果たすことのできる役割は極めて大きいと考えます。なぜなら、貨幣の調達において、通貨発行権を有する「国家」こそ、最も強力だからです。何のことはありません、政府がおカネを発行すればいいだけです。何も特別なことではありません。今でも毎年のようにおカネは発行されているのですから、その量をすこし増やせばいいだけです。

具体的に言えば、例えば今回の新型肺炎ウィルスによる景気の落ち込みを回避するには、政府が通貨を発行し、観光産業の人々の所得が落ちないよう、あるいは、従業員が解雇されないような支援を行う方法があります。あるいは、政府が国民に旅行クーポンを発行して、中国人観光客の減少を日本人の観光の増加で補い、利用代金の支払いのために政府が通貨を発行する、といった方法もあると思います。

このように、貨幣は、経済を維持活性化するために利用できる手段の一つであり、あたかも貨幣を神聖視して出し惜しみするような真似はやめるべきです。貨幣を神聖視しても、私たちが貨幣の奴隷になるだけです。我々にとって大切なのは、貨幣の価値(貨幣の希少性)ではなく、経済活動そのものであり、財をより多く生産し、人々に行き渡らせることです。そのために、貨幣は利用すべき一つの手段にすぎません。

政府はカネを発行して国民に配りなさい。そんなことすらできないのであれば、経済システムとしての、今日の資本主義には重大な欠陥があると、断言せざるを得ないのです。