2019年1月22日火曜日

歴史認識は有害である

「歴史認識は有害である」という客観的事実を理解し、認めることにより、歴史認識に対して冷静、客観的に対処することができるようになる。それこそが重要です。

逆に言えば、歴史認識が重要かつ不可欠であり、それに基づく行動が義務であるかのような強い意識を持つと、歴史認識の問題に対して、強いこだわりを持ち、非常に過敏になり、熱心になり、
あらゆる場面においてその影響が現れてくる。簡単に言えば「感情の問題になる」。

もし歴史認識が有害であるという客観的な事実を受け入れるなら、たとえばこのようになる。

「歴史認識はこうだー」という感情に対して、「確かにそうかもしれないけど、歴史認識って有害なんだよね」という、冷静な立場を維持できる。白か黒かではなく、そもそも、白黒決着つけたところで意味ないじゃん、となる。有害な観念に、囚われる必要はないからだ。

こうした「歴史問題にこだわらない姿勢」をもって、「日本の罪を誤魔化そうとしている」、などと批判が出るだろう事は十分に予測可能だ。だが、歴史認識は日韓で食い違いがあるし、すでに100年近くもあとの今になって、事実関係を100%明らかにすることは不可能だ。結局は双方共に、推測がかなりの部分を占めることになり、白黒は決して明らかにならない。

一方、有益か有害かは判断が比較的容易だ。実際に、歴史認識によって何が生じるかを冷静に分析するなら、歴史認識には必要性が無いこと、むしろ害悪であることは明白だ。

この検討は比較的簡単であって、①歴史認識にこだわる場合 ②歴史認識にまったくこだわらない場合、のどちらがより双方に利益があり、友好的関係を長期的に築けるかを比較すれば良い。長くなるので、おいおい、こうした考察も展開したいが、簡単に言っても、②の方が明らかに優れていることがわかるはずだ。

仮に、②歴史認識がなかったとしても、植民地支配・被支配の関係が未来において繰り返される可能性(日本が韓国を支配する)はゼロだろう。現代の国際情勢や価値観は、100年以上前の昔とは、比較する意味すらないほど違う。

それどころか、逆に①歴史認識にこだわることが、日韓の対立の解決不能な状況を生み出している現状をみると、これこそが、再び悲劇を繰り返す原因になりかねないとの懸念が強い。

もちろん、一度、刷り込まれた固定観念を簡単に払拭することはできない。歴史認識の問題は、ほとんど「感情のレベル」に刷り込まれているからだ。理性で理解しても、気持ちが治まらない、腹が立つ、そういうレベルだ。そんなものを両国民の気持ちの済むような形でクリアに解決できることは不可能だ。

だからこそ、「歴史認識は有害である」という、理性的な損益判断をしっかり認識することが重要であり、それが感情を冷却させる。そこが原点だ。最も重要な点だ。歴史認識ではなく、いまある利益をしっかり見つめ、日韓友好の道を歩むべきである。