2017年4月19日水曜日

人々は拡張現実ARの世界で生きている

ポケモンGOの流行で認知度が高まった拡張現実(AR)ですが、電子的には目新しいものの、現実認識の意味においては、すでに社会全体を覆っていると思うのです。

拡張現実とは何でしょうか。ポケモンGOの場合はスマートフォンなどのカメラ機能を利用することで、カメラを通してスクリーンに映し出された周囲の現実世界の映像中に、実際には存在しないモンスターの画像を重ねて表示することで、あたかも現実の世界に架空のモンスターが存在しているごとき印象を与える技術です。こうした技術はスマートフォンだけでなく、HMDといった目を覆う形で着用するデバイス、あるいはメガネのように装着するタイプのものも、広くはARと言えるでしょう。

これらは、現実世界の映像に、実際には無い何かを投影することで、現実に対する認識にも影響を与えることができると考えられます。つまり、そこに、実際には無い何かを感じるようになるということです。極端に言えば、視界に写るごく普通の人を犯罪者やモンスターとして認識させることも可能になるわけで、「大衆操作」「感情操作」のような領域にまで行ってしまうリスクもあります。

そうした意味で、拡張現実(AR)に不安を覚えないわけではありません。しかし、考えてみると「何をいまさら」感はあります。なぜなら拡張現実が登場する遥か以前から、人間の認知そのものが拡張現実だからです。

人間は過去の学習に基づいて、自分の身の回りや社会を無意識のうちに様々に認識(解釈)して行動しています。あるがままに見ることはまれです。学習の結果として、人により、同じものを見ても、そこにまったく別の意味を見出すため、多くの人で意見が合わなくなるのです。実際には見えない何かを見て、人は判断しています。それを常識や色眼鏡と呼んだり、あるいは思想やイデオロギーと呼んだりしますが、そうしたものを通じることで、実際にはそこに存在しない意味を見出しています。

そして、それが現実であると信じています。
現実は認知次第で作られるのです。

だから拡張現実によって大昔から人間の意思は操作されてきたわけで、何をいまさらなんです。逆に言えば、新聞マスコミあるいは政治家がさかんに報道したり発言する内容もまた拡張現実であると考えるべきです。実際にはないものを人々に信じさせようとしているのです。とはいえ、人間の社会はそれ抜きに成立しないのもまた現実でしょう。

そうした人間の性質を踏まえたうえで、時には現実をあるがままに捉え、そこを基点に考えてみる必要があるかも知れません。生の現実とはまさに「弱肉強食の生存競争」の世界がそこにあります。そうしてみると、この社会とはさもありなんと感じることもあります。

そんなことを思ったりします。