2011年6月4日土曜日

財源の本質とは何か

財源をおカネだと考えている人がほとんどですが、本当の財源とはおカネではありません。年金の財源といえば、おカネだと考える人がほとんどですが、おカネなどなくとも老後の生活の保障は可能なのです。財源とは富を生み出す生産力にあるからです。

年金財源はおカネではない

人々が生活するために本当に必要なのは生活物資です。衣食住の物資であり、保健医療、娯楽、教養などのサービスです。大切なのはおカネではなく、これらの生活物資をいかに生産し、人々に分配するかということです。そのための方法の一つとして年金制度があるのです。もし年金制度が機能しておカネを高齢者にきちんと配分することができたとしても、生活物資やサービスの絶対量が不足してしまえば、老後の生活など保障できるはずもないのです。年金制度とは、おカネの制度を利用してはいますが、実際には生産した生活物資やサービスを高齢者に分配するためのシステムにほかなりません。社会の活力を高め、その余力によって高齢者に分配する商品やサービスを生み出すことこそ年金制度の本質なのです。高齢者に分配する財を生産すること。財務省や日本銀行の理論が空虚なのは、このような視点が決定的に欠落しているからです。彼らにあるのは生産ではなく「カネの収支」「カネの交換レート(物価)」だけなのです。これでは年金制度など崩壊して当然なのです。

カネの収支やカネの交換レートが大切といわれる理由は、それが社会の活力を高め、生産余力によって高齢者に配分するための財を生み出すために必要だと考えられるからであります。しかし、デフレや不況により社会の活力を失ってまでカネの収支やカネの交換レートを守ろうとすることは、本末転倒です。これではカネの収支は合っても生産が滞り年金制度は本質的に崩壊する。官僚にかぎらす、組織はその性質から言って国家の全体最適化ではなく、その省庁の目的を最適化しようとする傾向があり、たとえ国家を破滅に導くとしても組織の目的に向かって猛進します。それは太平洋戦争へ突き進んだ軍官僚組織にあきらかです。戦前の軍官僚と同じように、いままさに財務官僚と日銀官僚が組織の目的のために暴走し、日本を太平洋戦争以来の破局に導こうとしているとしか思えません。すくなくとも、政治主導ではなく、官僚主導の政治が堂々と行われている今日は、戦争へと突入して行った、軍官僚主導の戦前日本と酷似していると言えるのではないでしょうか。

カネを抜いて考えてみる

現在の経済は市場とカネを通じて財の分配が行われるため、生産と分配という経済の根本的なシステムが見えにくくなってしまいました。モノ余りの時代と言われる一方で、モノの不足した貧困層が増加する日本。そこで、おカネを目に見えないように透明化して、財の生産と分配だけを見てみましょう。このためにアリの社会を想定してみます。このアリは人間には見えない特殊な化学物質を「おカネ」として使っているとしましょう。彼らの社会では物資の交換におカネが使われているのですが、私たちには見えません。すると、おかしなことに気がつきます。食料が大量に生産され余っている一方、そのすぐ横では満足な食料を得ることのできないアリが餓死していくのです。普通のアリの社会であれば、こんなことはあり得ないでしょう。食料の足りないアリは余った食料を食べて、アリの巣全体で餓死など出るはずはありません。それが普通です。ところがこのアリの社会では食料が余って腐る一方で、その横で餓死するアリが大量に発生するのです。余っているのだから分け与えればよいのですが、それはしません。その理由は、飢えているアリにおカネが無いからなのですが、私たちにはおカネが見えないので、そのアリに食料が分配されない理由は外から見てもわかりません。なぜか食料が余っているのに、一部のアリには食料が分け与えられないのです。その一方で食料が余ってしまうため、生産余力があるにも関わらず、食料の生産を減らしてしまいます(生産調整)。なぜ餓死するアリが大量に居るのに生産を減らすのか?そのアリに言わせると「需要が無いから」だそうだ。だがその矛盾を指摘するアリは居ない。そして「需要が無いのは人口が減少しているからだ」という。それが正論としてアリの社会では信じられているのです。飢えているアリが何万匹も居ても、需要が無いと平気で信じています。このようにカネは人々の考えを混濁させ、本質を覆い隠してしまうのです。カネを抜いて考えてみると、この矛盾に誰もが気がつくはずでしょう。日本の社会がおかしくなっている原因は人口が減っていることではありません。おカネの存在こそが災いの元凶なのです。

もちろん通貨を廃止せよなどと言うのではありません。通貨制度は多大な矛盾を孕んでいるとしても重要な制度です。通貨制度に代わる生産と分配のシステムを実現することは簡単でないからです。そうではなくて現代の拝金主義、カネベースでしか物事を考えることのできない偏った政治家や官僚に任せていては、本質を見失い、国家を破綻させる危険性があることを指摘したいのです。そして、通貨制度は憲法と同様に永遠普遍のものではなく、時代とともに常に改革され、それによって生産と分配を最適化し、不幸な人々を減らす必要があるはずなのです。財務省も日本銀行も官僚であり、官僚にはそれができない。リスクを負えない官僚組織は宿命的にイノベーションを実行できないのです。それゆえ企業であればトップが、国家であれば政治がリスクを背負ってイノベーションを行わねばならない使命にあります。政治主導の意味はそこにあるのです。

財源とは生産能力そのものである
ゆえに生産能力を増やすことが財源の確保となる

財源をおカネではなく、財を生み出す生産力であると考えることが必要です。財源とは普通「税金」を意味します。しかし税金はそれを使うことで何らかの財(公共設備や公共サービスなど)を生み出していますので、一定の生産力を背景に必要としています。国全体の生産力から税によって費やされる生産力を引いた残り、この残りの生産力が民間の生活必需品の生産と消費に費やされます。おカネを使って財を生み出す以上、財源とは生産力のことなのです。生産力なくして財源は成り立ちません。そして、増税するということは、国全体の生産力のうち税金によって費やされる分の生産力を増やし、民間の生産と消費に費やされる分の生産力を減らすことを意味します。増税によって人々の生活が苦しくなるのは、国全体の生産力のうちの多くを、税金というかたちで奪われてしまうからなのです。表面的には税金という形でカネとして奪われていますが、本質的には生産力を奪われているのです。そして政府が税金として徴収した生産力を政府として使っています。これが財源です。

財源を考えることは、国全体の生産力の振り分けを考えることであることがわかります。予算とは、その振り分けをおカネを使ってやっているに過ぎません。国全体の生産力をどのように配分して使用するのか。社会主義であればそのすべてを国家が管理しますが、資本主義では税を用いて公共と民間の配分を決める以外は、民間に任されることになります。

生産力の振り分けをおカネを用いて行うことが可能なのはなぜか。それは生産量が循環する通貨量によって決まるからです。年間に生産される財は市場においてほぼ完全に売買されるので、生産量は財の売買に使われたおカネの総額、つまり循環するおカネの量に等しいわけです。そして、売買に使われるおカネの量に応じて生産量が決まります。つまり、たくさん売れればたくさん生産されるのです。従って売買に使われるおカネの量、つまり循環する通貨の量が増えれば生産力も増加します。しかし最大生産力を超えることはありません。最大生産力は生産余力および経済成長力の合計です。つまりデフレ日本のように工場や労働者が余っている状態であれば、生産余力がありますし、生産技術があれば生産能力の向上、つまり経済成長が期待できます。その範囲であれば循環する通貨量を増やせば増やすほど生産力が増加します。

すぐに気が付くと思われますが、生産力を高めて、その高まった生産力を政府が利用するのであれば、民間消費に必要な生産力が奪われることなく、公共設備や公共サービスなどを実現することが可能であることがわかります。ところが財務省が行おうとしているのは、生産力を高めることなく、政府で使用する分の生産力を民間から奪おうとする行為ですから、どうやっても民間の貧困化は避けられません。しかも、いまある生産力を振り分けるという行為だけを続けていても、日本の生産力が向上することなど無く、財務省の行為は、ただ場当たり的に問題を先送りしているに過ぎないのです。

財源を確保するとは、今ある生産能力の範囲で振り分けを考える事で実現できるのではありません。財源の裏づけとなる日本の生産力を高めることによって初めて可能になることなのです。そして、生産力は最大生産力を超えない限り循環する通貨の量を増やすことによって高めることができる。これを基本として財源を考えるべきだと思うのです。