経済の基本
経済の基本は、人々が様々な商品・サービス(以降は「モノ」として表記)を生産し、それを互いに交換し合うことで人々の生活を支えているシステムのことです。私たちの生活に必要なモノをみんなで作って互いに交換するシステム。当然ながら、個々の人々がたくさんのモノをつくれば作るほど、人々の手にすることのできるモノの量が増えて、人々の暮らしは豊かになります。そして生産の分業化が進んだ今日では、個々の人々(企業)が生産したモノを十分に交換し合うことができて初めてすべての人々にモノが行き渡り、豊かになることができます。
不況とは
生産の分業化が進んだ今日では、どれだけ個々の人々が頑張ってたくさんのモノを生産しても、それを互いに交換するシステムが滞るとせっかく生産したモノが交換しきれずに余ってしまいます。同時にモノを必要とする人々にモノが行き渡らず、モノ不足を招いてしまいます。たとえば漁師と農家からなる社会を想定してみましょう。漁師は魚をとり、農家はお米を作って、互いに交換して生活しています。漁師が頑張ってたくさんのお魚を生産して在庫を抱えていて、一方で農家が頑張ってたくさんのお米を生産して在庫を抱えていたとして、もし、お魚とお米の交換がスムーズにすすまなければ、お魚もお米も交換しきれずに在庫が残ってしまいます。漁師がもっとお米をほしくても、農家がもっとお魚を欲しくても、交換がスムーズに進まないと彼らは欲しいものを手に入れることが出来ず(モノ不足)、在庫も残ってしまう(モノ余り)。そして、モノが余ってしまうために生産量を減らし、お魚もお米も交換できる範囲の量しか生産しなくなる。生産されるモノの総量が減少する、これが不況です。自給自足で交換を必要としない社会には不況はありません。不況は交換を前提として生まれるのです。漁師も農家も、両者が必要とするお魚やお米の生産能力は十分にあり、それぞれもっとお魚もお米も欲しいと思っていても(潜在需要があっても)、交換がうまく出来なければ、互いに生産量を減らし、互いの生活は貧しくなります。つまり分業化された経済にとって「交換」は極めて重要であることがわかります。
モノの生産量はおカネの量で決定される
物々交換が行われた古代とは異なり、現代社会におけるモノの交換はおカネ(通貨)を媒介として行われます。そのため、世の中のおカネの量が不足するとモノの交換が十分に出来なくなり、人々(企業)の生産したモノが余り(生産過剰)、その一方でモノ不足(貧困化)が同時に発生します。現代においてモノの交換は市場において、売買を通じて行われますが、売買の総額は取引に利用された通貨の量と同じです。当たり前ですが、使える通貨の量が減れば、売買により交換されるモノの量も減少することになります。そのように、世の中のおカネが不足して売れ残りが生じると、人々は生産する量を通貨の量に合わせて減らすことになります。どれだけ潜在的な生産能力が高くても、おカネの量が増えない限り生産しません。そして生産されるモノの量が減るがゆえに人々の暮らしは貧しくなるのです。もちろん、国民全員の生活が一律に貧しくなることはありません。現代の人々の生産活動は企業に雇用されて行われるため、失業した人々から順に、まだら模様的に貧困化が進みます。ちなみにデフレとは物価が持続的に下落することですが、おカネの量がモノの量に比べて不足しているときに発生します。つまり今の日本もおカネが不足しているのです。おカネが不足しているために不況が発生する、これが現在の日本の不況です。
おカネは十分にあると言うが貯蓄されたおカネは死んだおカネです
おカネが不足していると主張すると、おカネは十分にあると反論する方がいます。確かに現金・預金の総額は700兆円を超えているそうです。しかしおカネがいくらあっても貯蓄されたおカネは売買に使われませんので、いわば「死んだおカネ」です。死んだおカネがどれほどたくさんあってもモノの交換には一切関与しませんので、日本は金欠病なのです。貯蓄はモノの交換を停滞させ、不況を助長します。金欠病の日本の景気を回復させる方法は極めて簡単で「生きたおカネ」つまり交換に使われるおカネを増やせば良いだけです。おカネを増やす起点は日本銀行ですが(実際に増やすのは民間銀行)、日本銀行はバブル崩壊後、つい最近までおカネを増やすことに強硬に反対してきました。そのため日本はおカネ不足のために極めて長期的な不況に悩まされ続けてきました。そんな日銀もようやく少しずつ金融緩和政策により通貨を増やすことを始めましたが、効果が見えてきません。発行する通貨の量が不十分であることも原因ですが、そもそも現代の通貨制度は、誰かが銀行に借金をしないとおカネが増えない仕組みになっていますから、不況で借り手が居ない今の日本ではおカネがなかなか増えません。
銀行制度の致命的な欠陥
ところで、おカネはどのようにしてつくられるのでしょう。今回のような金融緩和政策では、まず日銀が現金を発行し、民間銀行から国債などの資産を購入して現金を民間銀行に供給します。しかしその時点ではまだ「生きたおカネ」ではありません。民間銀行の預金として民間銀行が保有しているだけです。民間銀行に流れたおカネは基本的に日銀当座預金として日銀に差し入れられているので、そのままではモノの交換には使えません。ですから、これはおカネであっておカネでないとも言えるでしょう。しかし、民間銀行はこの日銀当座預金として日銀に差し入れている預金の金額に応じて、その数十倍のおカネを民間企業や個人に貸し付けることを許されています。これが銀行の特権です。保有しているおカネの数十倍のカネを貸せるのは銀行だけなのです。おカネを貸し付けるといっても現金(紙幣)を渡すわけではありません。基本的に銀行は現金をほとんど持っていないため、貸し付ける相手の預金通帳に金額を書き込むことで融資を行います。そして、この預金通帳に金額が書き込まれた瞬間に、おカネが生まれます。皆さんの預金通帳に記載されている数字と同じ性質のおカネです。これはモノの交換にそのまま使えるおカネです。これが「預金」と呼ばれるものです。このように、誰かが銀行からおカネを借りて、その預金口座に貸付金が書き込まれた時におカネ(預金)が増えます。それ以外で増えることはほとんどありません。世の中に流通しているおカネはほぼすべてが銀行への借金として生み出されているのです。このため、右方上がりの経済成長を続けている間は借金をして投資をする人や企業が多くなりますから世の中のおカネは増えやすいのですが、低成長時代になると借金をして投資しても利益を出すことが難しくなるため、おカネを借りる人が減少して世の中のおカネはほとんど増えなくなります。それどころか借金を返済する人のほうが借りる人より多くなり、世の中のおカネが減り始める事になります。つまり現在の銀行制度は右方上がりの経済成長を前提としているため、もはや現在の日本の社会では機能しないのです。銀行制度にはこのような致命的な欠陥があるわけです。実際、日銀自身も金融政策でデフレは克服できないと認める趣旨の発言をしているようですし、金融政策は効果がないという評論が巷に溢れているところをみても、もはや銀行制度による通貨供給に頼る時代は終わったと考えるべきでしょう。
消えないおカネ「現金」を経済の中心に
前述のように、今の世の中のおカネはすべて銀行への借金として生み出されるため、必ず銀行へ返済しなければなりません。ところが借金がすべて返済されてしまうと世の中のおカネがすべて消えてしまう。それでは大変なことになってしまいます。だから永久に借金を止めることが出来ない、世の中の誰かが必ず借金をしなければいけないのです。そんな不完全な制度に私たちの生活そのものである「経済」が依存しているということは、極めて大きなリスクであるとわかります。そこで消えることの無いおカネを中心とした通貨制度に改める必要があるのです。それは難しいことでもなんでもありません。消えないおカネとは「現金」のことです。それに対して銀行が貸付金として作り出したおカネは「預金」と呼ばれます。現在はこの「預金」がおカネのほとんどを占めていますが、これを廃止して日銀の発行する「現金」にすれば良いのです。もちろん現金にしたからといって皆さんが紙幣を持ち歩く必要はありません。銀行の口座に入れておけば、今までと同じようにカードで払うこともできます。ただし「預金口座」ではなく「現金口座」になります。ちなみに預金と貯金は混同しやすいですがまったく違います。預金口座は誰かの借金から生まれたおカネ「預金」を貯めておく口座ですが、現金口座は日銀が発行した「現金」を貯めておく口座です。では、どのようにしておカネを世の中に供給すれば良いでしょうか。今までは日銀の発行した現金を元に、民間銀行が誰かに預金を貸し付けることで世の中におカネを供給してきました。今度は日銀の発行した現金を財源として、日本の将来に役立つ分野に直接おカネを使うことによりおカネを世の中に供給するわけです。たとえば風力発電所や海底資源の開発、医療施設、低所得者のための住宅の建設、技術開発のための教育機関や研究所の充実など、日本の将来のためにおカネを使うのです。それらのおカネは日本の社会資本を充実させた後、世の中をめぐりめぐってモノの交換を活性化するために働いてくれるはずです。