2011年3月27日日曜日

3)「おカネに価値がある」は都市伝説


<通貨の意味を問い直す時代に>

おカネの始まりは「物」

おカネというものが存在しなかった時代の人々は、基本的には自給自足だったでしょう。それでも、たとえば内陸に住む人が木の実や獣の干し肉などを携えて海岸に住む人の村へ行き、魚介類の干物などと交換するという、物々交換は行われていたと思われます。木の実も魚介類もそのものが消費財であり、それそのものに価値があります。しかし木の実などは秋にしか取れませんし、たとえば海の村に出かけたとしても、たまたま欲しい魚がなかったりするかも知れません。そこで、後から自分の欲しいモノと交換出来るように、一時的に別のものと交換しておけば良いと考えるでしょう。それに適しているのは、小さくて持ち運びに便利で保存が利き、多くの人にとって価値のあるもの。たとえば古代の日本では矢尻やその材料となる黒曜石などが交換の媒介に使われていたとの話もあります。これも実用品であると共に希少品ですから、それそのものに価値があります。後から欲しい物と交換できるという約束の証明だけであれば、そのものに価値が無くても良いですから貝殻なども使われたようですが、やはり、それそのものに価値が無いとダメだったのでしょうか、やがて金属を用いた貨幣が使用されるようになりました。金属は希少品ですから、そのものに価値がありますし、偽造することも難しくなります。その代表格は金貨でしょう。この時代の通貨はそれそのものに普遍的な価値がありました。これが今の紙幣とまったく異なるところです。

紙幣の誕生とおカネの価値の喪失

おカネの使用が始まってからも、人々の生活は基本的に自給自足が中心であり、分業化が進んだ現代のようにおカネが無いと生活できないということはありませんでした。おカネはごく一部の支配者層を中心とする都市部で利用されている程度のことでした。日本でも江戸時代は米が経済の中心だったと言います。

しかし商業が発達して交易が拡大するにつれておカネの需要がどんどん高まり始めました。おカネは携帯に便利で、しかも人々の間で普遍的な価値があったので取引の媒体として最適だったのでしょう。おカネの需要増に応えるために鉱山がどんどん開発されて、金や銀などが供給され、通貨がどんどん増えるようになりました。ところがそれでもおカネの供給量が間に合いません。市場経済は通貨を媒介にして、生産した財を取引で交換することによって成り立ちますので、取引量は取引に使用できるおカネの総量によって上限が決まります。また、金貨や銀貨を誰かが貯め込んでしまうとおカネが不足してしまいます。そしておカネが不足すると経済が停滞してしまいます。経済におけるおカネの重要性が高まってきました。

やがて銀行が生まれました。銀行は金貨や財宝を預かるための貸し金庫として始まったそうです。貸し金庫に金貨を預けるという貯金がはじまりました。貯金した人は、何かの支払いのたびにいちいち金庫を開けて金貨を持ち出すのは面倒でしたので、そのかわりに銀行が発行する、金貨の証明書を持ち歩いて、支払いなどに当てていました。これが紙幣の始まりです。紙幣は金貨を保管する銀行が、金貨の証文として発行したのが始まりで、携行が便利で安全でもあるためにおカネとして普及したのです。これが銀行券です。金貨と異なり紙幣には物質的な価値はありませんが、金貨と1対1で交換できるという裏づけがありました。交換比率は1対1です。やがて銀行は金貨のかわりに、この銀行券を人々に貸し付けることで利息を得るようになりました。

ところで、経済がどんどん拡大するにつれ、その経済活動を支えるために必要なおカネの量はどんどん増えていきました。多くの人が銀行からおカネ=銀行券を借りるようになり、金庫にある金貨の量をはるかに上回るおカネの需要が生まれてきました。そこで、紙幣と金貨との交換比率を下げることにしたのです。いよいよおカネの物質的な価値が消え始めました。同時に、このとき始めて「取り付け騒ぎ」という概念が生まれました。裏づけとなる金貨よりも多くの紙幣が発行されるようになったため、人々が一斉に紙幣を持って金貨と交換に銀行へ行くと支払いできる金貨が足りないのです。最初は金庫に預かっている金貨の3倍の紙幣を発行できる程度でしたが、やがてその比率はどんどん低くなってゆきました。つまり元となる金貨の量をはるかに超えるおカネが印刷されるようになりました。

管理通貨制度

それでも、この頃の通貨制度は「金本位制」と言って、紙幣はいくらかの金の裏づけを持っていたのです。ところが産業革命や科学技術の進歩で経済は爆発的に成長し、いよいよおカネが不足してきました。また国際貿易が活発化して貿易格差が拡大したために、世界的な金保有量の偏在という問題なども発生し、おカネの不足が経済を混乱に陥れるようになり、ついに、おカネを金の裏づけなしに自由に発行できる「管理通貨制度」になりました。管理通貨制度の通貨はいちおう何らかの資産の裏づけの上で発行してはいますが、それはすでにおカネそのものの価値とは完全に切り離され、形骸化されたと考えるのが自然です。ついにおカネはすべての物質的な価値を失い、人々がそれを「おカネ」と信じていることと、「法貨」として法律で支えられていることだけが根拠となったのです。

信用創造で膨らむあぶく銭「預金」

管理通貨制度によるおカネの発行は国立の銀行、つまり中央銀行の話です。日本では日本銀行です。しかし実際に世の中を流通しているおカネのほとんどは中央銀行が作ったおカネ、つまり「現金」ではありません。民間銀行は自ら保有する現金を元手に「預金」を作り出しますが、流通するおカネのほとんどをこの「預金」が占めています。預金とは、誰かにおカネを貸した際に作り出される債権であり、返済されるという「信用」が裏づけとなったおカネの一種(現金同等品)です。ですから預金は現金である「日本銀行券」などと根本的に異なる別のものです。銀行は保有している現金の10倍、20倍の預金を企業や人々に貸付けします。つまり預金とは誰かの借金なのです。この借金がめぐりめぐって私たちの給料として振り込まれたり、私たちが大切に貯金したりしているわけです。これが預金のしくみです。預金は「返済される」こと(信用)を前提として成り立つため、バブル崩壊などで多くの企業が返済できない状態になると、連鎖的に崩壊します。元となる現金はわずかなのに、返済をあてにして、その何倍も貸付を行うのですから当然のことです。ですから、もし取り付け騒ぎで預金者が預金を引き出しに行っても、そもそも銀行の保有する現金が足りるはずが無いのです。ちなみに「預金を引き出す」と言いますが、これは正確には預金を現金に交換する行為であり、預金はそもそも現金ではありません。預金とは単なる信用なのです。

「おカネに価値がある」は都市伝説

このように中央銀行が金貨の裏づけ無しで現金を自由に発行し、その現金を元に民間銀行がその何倍も企業や人々に預金を生み出して貸し付ける現在の通貨制度において、おカネに価値があるなどというのは都市伝説のようなものです。もちろん交換の媒体として、経済活動に果たすおカネの意味は非常に重要でしょう。しかしおカネそのものの価値は完全に喪失しました。未だに古典的なおカネの価値を信じる政治家も多いようですが、そのことが、現在の日本のデフレを長期化させ、泥沼から抜け出せない原因であるような気がします。

おカネに価値はありません。経済活動を活性化させるための「媒介」あるいは「記号」に過ぎないのです。おカネに対する古い常識を捨て、経済活動を活性化するために「あるべきおカネの姿とは何か」を考える時代なのではないでしょうか。 (つづく)