民族主義と聞けば、世間ではナチス・ヒトラーの民族闘争思想のような排他的な民族主義を連想するようです。しかし民族主義はそもそも排他的である必然性などありません。各民族が互いに協力して、それぞれのコミュニティーを高める共生的な民族主義こそが、本来あるべき民族主義です。それは民族をごちゃ混ぜにする資本主義的な、いわゆる「多文化共生」とも本質的に異なる考えだと思います。
近年、拝金主義的なグローバリズムに対する人々の不信感、あるいは過激派のテロ攻撃による社会不安から、各国で民族主義的な動きが高まっています。こうした動きを新聞マスコミは危険視し、ステレオタイプな「排他的民族主義」と断定して、民族主義的な運動に対するネガティブ報道を展開しています。
しかし、少し冷静に考えればわかることですが、「生き残りをかけて民族が戦う」ような帝国主義時代における民族主義思想が現代に通用するはずもありませんし、その必要もありません。それを現代においてやっているのが北朝鮮です。しかしあれでは民族が衰退するばかりであり、民族の幸福と繁栄を実現することは不可能です。誰もそんな民族主義を望んでいるはずがありません。
現代において、民族の幸福と繁栄を実現するためには(多民族国家であったとしても)、自国のエゴだけ押し通すより、むしろ多くの国々(民族)と協調し、共存共栄を図る方が有効です。もし、ある国が貧困状態に取り残され、資源を搾取される立場にあるとすれば、その国が過激な民族主義に染まり、民族の生き残りをかけて戦争をしかける危険な状況に陥るリスクもあります。その意味からも、世界の各民族は互いに自由・平等・博愛の精神で相互支援する必要があります。
ですから、今日、目指すべきは共生的民族主義です。
共生的な民族主義は、まったく過激ではありません。むしろ、いかに他の民族を助けるかが、現代の民族主義にとって重要です。そこには「互いの民族・文化を尊重する」高い意識が必要となります。どれほど経済力が低い国であっても、民族として尊重する、そして尊重される。地球の多様な民族文化を維持発展させるための、グローバルな民族の共同体です。
それは、現代における拝金主義的なグローバリズムとはまったく異なります。拝金主義的なグローバリズムの第一義はカネであり、企業であり、民族ではありません。グローバル大企業の共同体です。そのため、多文化共生といいながら、実際には多文化をごちゃまぜにしてミックスしてしまうことで、民族特性は消し飛んでしまうのです。そして企業と株主の幸福と繁栄が追求される、世界統一拝金社会になるのです。
今日における民族主義運動にも、様々な立場はあると思います。中には戦前の民族闘争思想を持っている時代遅れの人々もいることでしょう。しかし、今日における民族主義的な運動の大部分はむしろ民族としての団結、共同体、文化、アイデンティティーを維持すること、つまり、本当の意味で多文化を維持し続けようとする立場に親和的なはずです。そのためには、民族間には「境界線」による秩序が必要なのであり、拝金主義思想に基づく「ごちゃまぜのカオス世界」を安易に認めてはならないのです。
まったく問題ありません。
問題があるとすれば、その手法が「稚拙」である場合です。たとえば自国内にいる異民族を暴行するとか、ヘイトスピーチするとか、差別するとか、そんな手法はまったく無意味です。彼らの自己満足を満たすだけであり何の解決にもならないからです。