2017年7月31日月曜日

「バラマキ=悪」イメージが日本をダメにする

「バラマキ=悪」という、短絡的なイメージを新聞マスコミが世論に定着させたことで、日本経済を回復させることは非常に困難になっています。まさに新聞マスコミは万死に値するのではないでしょうか。

バラマキはマイナスのイメージ用語です。具体的な定義がありません。そのため、あらゆる財政支出について「バラマキだ」と非難することを可能にするのです。つまり「ムダな公共工事」も「社会保障支出」も「教育投資」も、すべて「バラマキだからやめろ」で片付けることができるのです。

もちろん、ほくそ笑むのは財務省です。何しろ財政支出は1円も増やしたくない。そのためには「バラマキ=悪」のイメージは実に役に立つのです。緊縮派の最強のツール、それが「バラマキ=悪」。この最強誘導ツールで、少しでも世の中におカネを流すような政策は、ことごとく「バラマキだー」と騒いで潰すことができます。

本当はバラマキの中身こそ問題なのですが、
そんなことはお構いなし。

このバラマキ思考停止の元凶が新聞マスコミです。「公共工事は効果を精査しながら行う必要がある」、と言えばいいのですが、そういう難しい表現は使いません。短絡的に「公共工事はバラマキだから悪だ」を繰り返したため、国民はよく考えもせずにイメージだけで反射的に反応するようになってしまいました。

こうなると、年金等の社会保障を充実しようとすれば「バラマキ」、生活保護も「バラマキ」、もちろん国民への給付金であるヘリコプターマネーやベーシックインカムは「最悪のバラマキ」という具合です。

そもそもバラマキの何がどうして悪いのか?
国民は理解していないでしょう。

それを理解させ、財政支出の意味や効果などをきちんと評価させるのがマスコミの本来の役目なのですが、そんな意識はまったくないようです。彼らの目的は「とにかく財政支出を減らすこと」なのです。だから、大衆に余計な知識など授ける必要はありません。だから「バラマキ=悪」のイメージだけ刷り込めば、それで良いのです。

その結果、どうなるか。

もし与党が国民に給付金を配ろうとすれば、
→野党が「バラマキだ止めろ」と騒いで妨害。

逆に野党が社会保障を増やそうと主張すれば、
→与党が「バラマキだ止めろ」と騒いで妨害。

なんじゃそりゃw。何があっても国民におカネを渡さない、緊縮アリ地獄かw。ほくそ笑むのは財務省だけです。

2017年7月28日金曜日

残業代ゼロ法案と仕事の生産性

新聞マスコミが「成果による賃金制度を導入し、生産性を向上すべき」と書いています。多くの人は生産性の向上と聞くと「仕事を効率化するから良いこと」と考えます。しかし生産性の向上と仕事の効率は違うのです。

(ねこ)
労働基準法の改正案、いわゆる「残業代ゼロ法案」がまた騒がれ始めたのにゃ。労働時間ではなく成果に基づいて賃金を支払う制度のことにゃ。何時間労働しても、成果が同じなら給料は同じって話だにゃ。成果に基づく賃金制度は新聞マスコミに「生産性が向上する」って書いてあるから、生産性が高まっていいことなのかにゃ。

(じいちゃん)
確かに新聞マスコミには「生産性が高まる」と書いておる。一般の人々は「生産性が高まる」と聞けば良い事じゃと思う人が多いじゃろう。なぜなら「生産性の向上」と聞くと多くの人は短時間の仕事でたくさんのモノやサービスを生産するようになることだと考えるからじゃ。つまり生産性の向上とは、仕事の効率向上(生産効率の向上)のことだと考えておるじゃろう。

(ねこ)
そう思うにゃ。生産性の向上と仕事の効率向上は同じじゃないのかにゃ。

(じいちゃん)
同じ部分もあるが基本的に別だと考えた方が良いじゃろう。仕事の効率とは「モノやサービスで考えた場合」生産性の向上とは「おカネで考えた場合」と考えることができる。

例えば仕事の効率は時間当たりの生産量として考えることができる。だから短時間に効率的に仕事をこなして生産効率が高まるほど、生み出されるモノやサービスの量が増える。モノやサービスが増えれば社会が豊かになると考えられるじゃろう。生産の時間的な効率という視点じゃ。普通の人は生産性と聞くと、これをイメージする。しかし実際の生産性はどうか。

生産性は計算式に基づいて定義されておる。つまり

(生産性)=(付加価値の生産量)÷(総労働時間)じゃ。

この式だけ見れば、仕事の時間効率を高めると生産性があがると思うじゃろう。しかし、付加価値の生産量も総労働時間も金額で換算されるから、この式は次のように書き換えることができる

(生産性)=(売り上げによる利益)÷(賃金コスト)となる。

売り上げによる利益とは、売り上げ金額から製造原価、販売経費などを引いた金額とする。こうしてみると、生産性から「時間」という視点は消えてしまう。つまり生産性は必ずしも労働時間とは関係がないことがわかるじゃろう。

例えば、景気が良くなって売り上げによる利益が増加すると、それだけで生産性が向上することがわかる。つまり世の中の景気が良くなって商品がバンバン売れるようになると、それだけで生産性は向上するんじゃ。

また逆に、景気が悪くて売り上げがまったく伸びなくても、賃金コストが減少するとそれだけで生産性が向上することがわかる。つまり世の中の景気が悪いままでも、リストラや賃金をカットすると、それだけで企業の生産性は向上するのじゃよ。従って、ある意味では生産性の向上と仕事の効率は関係ないと考えることもできる。

まさに「残業代ゼロ」はこれなんじゃよ。残業代をゼロにすれば、それだけで賃金コストが低下するから、仕事が効率化しようがしまいが生産性は向上する。すると新聞マスコミが「残業代ゼロによって生産性が向上しました」と記事に書き、多くの人は「ああ、仕事の効率が高まったんだね、よかったよかった」と言うわけじゃよ。ばかばかしいのう。

(ねこ)
うみゃ~、知らなかったのにゃ。生産性の向上と仕事の効率向上は同じだと思っていたのにゃ。効率よく仕事すれば生産性が上がると思っていたにゃ。

(じいちゃん)
確かに仕事の効率を向上させると、生産されるモノやサービスの量が増えるから生産性が向上する可能性はある。つまり、たくさん生産された分だけ、たくさん売れれば、売り上げによる利益が増えるから、生産性は向上する。しかし消費者におカネがなければ、いくら作っても売り上げは増えないじゃろう。すると、労働者がどれほど苦労して仕事の効率を向上させても生産性があがらないことになる。

(ねこ)
ん~、それじゃあ仕事の効率を高める意味ないにゃ。

(じいちゃん)
ところがそうでもない。仕事の効率が高まると、同じ量の商品を生産するのに必要な労働者の数が少なくなるんじゃ。そこで企業は労働者を首にして、賃金コストを減らし、生産性を高めることができる。じゃから新聞マスコミの「生産性の向上が必要だ」という話をすんなり受け入れてはいかんのじゃよ。

(ねこ)
ひどいにゃ、ひどいにゃ、労働者がふんだりけったりだにゃ。企業も労働者も得する良い方法はないのかにゃあ。

(じいちゃん)
ある。国民に給付金を支給しつつ仕事の効率化、残業時間の短縮化を行えば良いのじゃ。それがヘリコプターマネーやベーシックインカムと呼ばれる手法じゃ。すべての国民に毎月おカネを支給すれば、国民の購買力が高まる。すると仕事の効率向上によってたくさん作られたモノやサービスは売れ残ることなくすべて売れるじゃろう。すると企業の売り上げが増えるから、仕事の効率だけじゃなく、生産性も向上するんじゃ。仮に残業代が減っても、代わりに給付金をもらえるから所得が減る心配も少なくなる。まさに企業も労働者も得をするんじゃ。

(ねこ)
すごいにゃすごいにゃ。ヘリコプターマネーで国民におカネを配りながら、労働時間の効率化をするべきだにゃ。

(じいちゃん)
仕事の効率を高めるのは良いことじゃし、労働時間が短くなるのも良いことじゃ。問題はそれで労働者の所得が減ってしまう恐れがあることなんじゃ。じゃから政府の勧める「仕事の効率化や時間短縮」に反対するのではなく、代わりにヘリコプターマネーやベーシックインカムを要求すれば良いのじゃ。

ところが、拝金主義の自民党は当然としても、どの野党もそんな政策は提案しない。労働組合にもそんな話はまったくない。どの連中も「おカネを国民に配る」ことには反対らしい。国民の生活が第一ならぬ「カネの価値が第一」なんじゃよ。

まあ、そんなわけで、国民の大部分は「生産性の向上と仕事の効率向上」を混同しておる。そして新聞マスコミが「生産性の向上のために脱時間給・・・」と書けば、「しかたない」と納得してしまう。もちろんそれが新聞マスコミの狙いじゃ。だから新聞マスコミは「生産性向上・生産性向上」を連呼し、生産性を錦の御旗にして国民の労働強化に向けてまい進しておるのじゃよ。

騙されてはいかん、まず最初に行うべきなのは「国民におカネを給付して国民の購買力を向上させること」じゃ。そうすることで初めて、みんなが考えている生産性の効果が実現できるのじゃ。

~本編サイトと同時掲載~

2017年7月27日木曜日

リフレ派とケインズ派の喧嘩

ネット上では、しばしばリフレ派とケインズ派が喧嘩しています。自分はリフレとケインズの両方を支持してますから、この喧嘩はアフォらしくて見ていられません。どうして喧嘩になっているのか、自分の見立てを書いてみます。

リフレ派とは「金利操作」による景気や物価のコントロールを主張し、自由主義的な傾向の強いグループです。ケインズ派は「財政出動」による景気のコントロールを主張し、自由主義的な色合いは薄い(ネット上ではむしろ保護主義に近い)グループです。この両者は、民主党政権の頃は「脱デフレ」「金融緩和」で意見が一致して、共闘していました。しかし、アベノミクスで金融緩和が始まると、両者の違いだけが浮き出るようになり、互いに罵りあうようになりました。

リフレ派とケインズ派の喧嘩。自分の見るところ、最初に手を出したのはリフレ派のような気がします。リフレ派の一部の学者が「金融緩和だけすれば財政出動は必要ない」と言い出したと記憶しています。次に自由貿易の国際的なしくみであるTPPで対立。ケインズ派がTPPを批判するところ、リフレ派がTPPを強力に擁護して譲らず、いずれも両者が妥協点を探る気配ありませんでした。

第二次安倍政権の初期段階では物価が上昇し、景気も回復し、金融緩和による効果があるとされ、リフレ派は強気でした。そこでリフレ派の発言も強くなり、ケインズ派は旗色が悪く、押し込まれた状況におかれていたと思います。この段階でケインズ派の内部には相当なストレスが貯め込まれたはずです。

ところが、消費税の増税後、金融緩和の効果はどんどん失速を始め、政府が苦し紛れに「デフレではない」と言ったところで、インフレターゲット2%の達成は先送りされるばかり。失業率が低下しているにも関わらず実質賃金の伸びは鈍く、景気回復に対する国民の実感もほとんどないような状況です。

さらに、低金利で利ザヤの抜けなくなった金融街の連中が日銀の金融緩和には効果がない、出口だ出口だと騒ぎはじめました。そこへ経済素人の野党も便乗して、金融緩和は効果が無い、アベノミクスは失敗だと叫んでいます。

そこで窮地に立たされたリフレ派は「財政出動も同時にやるべき」と言い出し、この発言に最初から財政出動を主張していたケインズ派が激怒。いまさらなんだ、というわけです。そこへリフレ派が「いやいや、財政出動をやるなとは言ってない」と弁解するものだから、ますます炎上。

怒りの収まらないケインズ派は極論に走り始め、金融緩和は効果が無いと言い出し、リフレ派の攻撃に転じています。それが1~2年くらい前でしょうか、そこから先は知りません。あまりにもバカバカしいので、最近はリフレ派にもケインズ派にも、すっかり興味を失い、放置しています。もちろんこれは自分の見立てなので、違う部分があるかも知れませんが。

これが人間の愚かさではないかと思います。
なぜもっと広く、大きく考えられないのか。

どっちの理論が正しいかなんてどうでもいいんです。本当の敵は誰なのか?もう一度よく考えて欲しいですね。しまいには、どっちも愛想尽かされると思います。


2017年7月26日水曜日

加計問題における大衆の心理

加計学園に安倍首相が便宜を図ったかどうかで国会が大騒ぎになっていますが、冷静に状況を判断すれば、結局は空騒ぎに終わると予想できます。しかし、なぜこんな空騒ぎで世論が盛り上がるのでしょうか。

加計学園に首相が便宜を図ったかどうか、この事実関係を確認することは不可能です。言った、言わないの話だからです。推論だけで断罪することはできません。そんなことをすれば世の中は冤罪だらけになってしまいます。ですから首相が交代するかどうかは、最終的に自民党内の権力争いで決まります。

しかし、そう簡単に交代するとは考えられません。FNNの世論調査でも、「今、誰が首相に相応しいか」の問いに、一位は「ふさわしい人がいない」が21.6%で最も多く、石破氏が20.9%、安倍氏が19.7%と、特に決定的な状況が生まれているわけではありません。こうした状況では自民党内で首相の交代を求める声が高まるとは考えられないのです。

ですから、空騒ぎで終わると予想されます。ただし、空騒ぎでも国民は「安倍にお灸を据えてやった」と満足するでしょう。

なぜ、こうした現象が毎度毎度、発生するのでしょうか。これは今回の安倍首相に限りません。福田首相のときも、鳩山首相のときも、国会がつるし上げ大会になり、マスコミが騒ぎ、人々が興奮するのです。左派支持者、右派支持者にかかわらず、3時の奥様向け番組でも大騒ぎなのです。

それは、人々がそれに「快感を覚える」からです。権力者という強い立場の人間をその地位から引き摺り下ろすこと、これに人々は興奮するのです。だから安倍であろうと鳩山であろうと、世間は内心で面白がっているのです。これは人間の「衝動」や「無意識」に近いレベルで生じているので、意識していない人がほとんどでしょう。こうした快感を覚えながら、したり顔で「う~ん、疑惑が・・・」などと言うのです。

また、新聞テレビなどのマスコミで報道される内容は、いつもいつも「政治家が悪いことをした」という内容ばかりです。そのため人々の潜在意識には「政治家=悪いやつ」という観念が完全に刷り込まれています。そのため「政治家がよいことをした」という事実より「政治家が悪いことをした」という事実の方が、刷り込まれた常識にマッチするため「やっぱりそうか」と、共感を覚えるのです。こうした、自分の潜在意識にある常識と一致する現象を人々は好む傾向があります。

また、争いごとは人々を興奮させます。ローマ時代から、大規模な見世物として利用されています。それが国会で行われています。怒声罵声の飛び交う国会に興奮する。まさに劇場ですね。

こうしたことから、国会で政治家・権力者がつるし上げになると右派左派無党派に関わらず、人々は興奮しやすくなります。

そうした大衆の心理に付け込むのが「新聞テレビなどのマスコミ」なのです。大衆扇動の考えから言えば、興奮状態にある人々は、操作しやすいのです。いわゆるポピュリズムの図式がそこにあります。こうして新聞マスコミによって大衆は操作され、政治が動かされてゆくわけです。

悪い政治家が交代するのは問題ありません。しかし、悪いかどうかわからない政治家が、大衆心理をたくみに利用する新聞マスコミなどの操作によって交代させられる可能性があることを、人々はあらかじめ理解しておく必要があると思うのです。


2017年7月25日火曜日

書籍「金融緩和の天国と地獄」改訂版を発売

2015年に発売した書籍ですが、内容を加筆修正して、改訂版として発売しました。電子本のみ300円です。自分の発売した書籍の中では、売れているほうです(たかが知れてますけどw)。

初版では、ちょっと癖があったので(野党をボロクソに批判していたw)、そういう部分はカットして、政治的にはより中立にし、全体的な流れにも手を加えて、より自然な形で理解していただけるよう心がけたつもりです。

加筆については、バランスシートの考え方を利用して、銀行の仕組みや、日銀の金融政策の仕組みなどの説明しています。それを第4章として分離し、強化しました。財政再建も、バランスシートで説明しています。また、100%通貨政策の一つとしてアイスランドの例をご紹介し、それもバランスシートで説明しています。なるべくバランスシートをやさしく説明したつもりです。

なお、内容の詳しいご説明は以下、本編サイトの記事より。
<ここからリンク>
サイドバー(左側)のバナーからもリンクしてます。

なんか、アマゾンもせこくなりつつあり、手数料的なものの他に、配信コストとか抜かれるので、半分は持っていかれますw。仕方ないです。というか、売れても国民年金と健康保険の支払いで消えますw。クソ、年金もらわずに死ねるかw。

2017年7月24日月曜日

マスコミはジャーナリスト囲い込み装置か

なぜ新聞マスコミには画一的で型に嵌った記事しか出てこないのか?不思議で仕方ありませんが、もしかするとマスコミは世論画一化のための「ジャーナリスト囲い込み装置」かも知れません。

新聞マスコミを見ると、同じような論調の記事ばかりです。どの新聞マスコミも、消費税増税の推進、財政支出の削減、自由貿易の促進、金融システムに関する間違った記述などで溢れています。違うのはイデオロギーや外国勢力との関係性に関わる部分だけが、左派系と右派系のメディアで異なる程度です。

金融政策にしても、まるでトンチンカンな話を堂々と書いている。下手をするとマネタリーベースとマネーストックの違いすら理解していないと疑われる記事ばかり。なぜ、こうなのか本当に不思議です。しかし、こうした世論形成は「マスコミによってジャーナリストが囲い込まれている」ことが原因ではないかと思うのです。

マスコミのような「組織」は上下関係があるでしょうし、当然ですが会社の方針もあって、所属のジャーナリストが自由勝手に記事を書くことは不可能だと思われます。またマスコミは、ジャーナリストを希望する若い学生を採用して、いわば何も知らない赤ん坊をマスコミの都合に合わせて育てていくわけです。するとジャーナリストはとりわけ意識することなく、条件反射的にそれぞれのマスコミの主張で記事を書くようになりますし、その内容に疑問を抱くこともないでしょう。

このように、世の中のジャーナリストを特定のマスコミに囲い込み、そこで集中管理、育成、操作を行うことにより、社会の世論を効率的にコントロールすることが可能だろうと推察されるのです。これにより在野のジャーナリストが増加し、支配層にとって都合の悪い情報がどんどん発信されることを防ぐことができます。

そのための装置がマスコミというわけです。

これは陰謀論なんかじゃなくて、マスコミの機能が陥るリスクとして十分にあり得ることだと思います。そうなるリスクがある。絶対権力が絶対に腐敗する現象と同様に、程度の問題はあるにせよ、避けがたく起こりえる可能性が高いと思います。

こうした現象は、マスメディアが少数の大資本によって独占された状態にあると、より容易に起こりえると思われます。つまり、日本のような「大新聞」の支配する世論の場合、その悪影響の度合いはより高くなると思われます。

大メディアの解体。

日本の再生は、まずそこから始めなければならないのかもしれません。

2017年7月21日金曜日

マスコミによる「反復刷り込み」の毎日

NHKを視聴していたら、またしても「消費が伸びない原因は社会保障への不安」と報道していた。しかし、そんなことは誰も証明していないし、証明も出来ない。推測に過ぎないことを何度となく繰り返し報道するのだから、これは世論操作と言えます。

もちろん「~という指摘もある」という言い回しで逃げています。しかし、消費が伸びない原因は他にもいろいろ指摘されているのであって、どれも証明の出来ない推論に過ぎません。人々が消費しないのは社会保障に原因があるかどうか、そんなことは誰も証明できないのです。にもかかわらず、「消費が伸びないのは社会保障への不安」という一つの推論だけを、さもそれらしく取り上げて、何度も何度も報道すれば、それは推論の域を超えて「既成事実」として人々の意識に刷り込まれるのです。

まさに偏向報道による世論誘導です。

結局のところ、新聞マスコミの戦略はこうです。「①デフレの原因は消費が伸びないから→②消費が伸びないのは社会保障に不安があるから→③消費税を増税して社会保障を安定させる」という流れを人々に納得させるための布石なのです。もちろんこれも一つの考え方ではあるが、問題は新聞マスコミがこうした「財務省の筋書き」ばかりを報道し、それを既成事実化しようとやっきになっている点です。

これはNHKのニュース、7月20日の日銀の政策決定会合後の黒田総裁の記者会見で、デフレの達成を6度目の先送りしたニュースの中で言っていたことですが、そもそも、日銀総裁の会見の中に「消費が伸びないのは社会保障への不安がある」なんて話は出てこない。NHKが話を勝手に持ち出したのです。なにげにさらっと、サブリミナル的に。まさにこれが新聞マスコミの常套手段なのです。こうしたことは新聞マスコミの報道を観察すると、ほとんど日常茶飯事であることがわかるでしょう。ネットなどを利用できない「情報弱者」を騙すには最適な媒体です。

ちなみに黒田総裁の発言は「賃金・物価の上がりにくいことを前提とした考えや慣行が企業や家計に残っている、根強いデフレマインドがある。」という内容のようです。

いやはやw。

デフレマインドがあるのは企業や家計だけではない、まさに「財務省」こそデフレマインドの塊ではないか。そもそも財務省が消費税の増税に固執するのは「賃金・物価のあがりにくいことを前提とした考えや慣行」そのものです。なぜなら、賃金・物価が上がれば税収は自然増するため、増税に固執する必要はないからです。「消費税の増税こそデフレマインドである」。

新聞マスコミは偏向報道、財務省はデフレマインド、国会は不毛な権力争い。まったくあきれた世の中です。

2017年7月20日木曜日

経済シミュレーターの実現を望む

地球シミュレーターなるスーパーコンピューターがあるそうです。それなら経済シミュレーターも実現して欲しいと思います。それは様々な経済政策の予測を行う上で大変役に立つと思うからです。

地球シミュレーターとはスーパーコンピューターの驚異的な情報処理能力を活用して膨大な計算を行うことにより、地球の気象、温暖化、地殻変動などのシミュレーションを行うものです。こうしたシミュレーションは宇宙物理学のシミュレーションでもよく見かけますね。シミュレーションは、すでに自然現象の予測や理解に欠かせないものになっています。

しかし、経済分野におけるこのようなシミュレーション装置は聞いたことがありません。是非ともスーパーコンピューターによる経済シミュレーターを実現して欲しいですね。

なぜこれが必要なのか?経済を単純数理モデルだけで予測するのは、そもそも無理な話だと考えているからです。現代の計量経済学は数理モデルを仮定しますが、これは現実を非常に単純化して、それを前提とした数式からなります。ところが実体経済は非常に多数の人々が勝手に活動し、その総合的な形として全体現象が現れてきます。ですから経済は気象や地殻変動のような、単純式で表すことのできない複雑系に近いと考えられます。

こうしたシミュレーション手法は、マルクスはおろか、ケインズやフリードマンの時代には不可能だったことです。これはスーパーコンピューターの出現によって可能になった、新しい手法だからです。この利点はコンピューターの強力な計算能力を生かして、過度に単純モデル化することなく、複雑なものを複雑なまま処理できることにあります。

そのメリットは、予測の確からしさを過去の事例を用いて研究できること、それにより予測の精度を高めることができること、同時に複数項目の予測も可能であることだと思われます。

シミュレーション技術に関して詳しいわけではないので、あまり正確に説明できないのですが、個々の人間や企業の経済活動を個別に計算することで、たとえば1万人、1000社(銀行、製造業など)くらいの社会の経済的な動きをシミュレーションするわけです。個々の人間や企業の行動決定には人工知能の技術が応用できると思われます。いわば「シミュレーション経済学」です。

もちろん、そのためには企業や個人の行動に関する基礎的な研究も必要でしょうし、そう簡単ではないかもしれません。しかし、もし経済の動きが地球シミュレーターなみに予測可能になれば、その過程において経済のメカニズムを深く理解できると同時に、それを具体的な政策立案とその後の効果予測に大変に有効なはずです。

これには膨大な予算が必要かも知れませんが、おそらく「経済活動を左右する」だけに、もし開発に成功すればそのメリットは計り知れないと思います。まさにそうした分野にこそ政府が大々的に予算を投じるべきだと思うのです。

2017年7月19日水曜日

マスコミの財政収支議論は空理空論

またまた新聞マスコミが「基礎的財政収支が赤字だ」と騒いでいます。しかしその内容はほとんど空理空論。前提となる考えが古過ぎるため今日の時代に合わないのです。

21世紀になり、日本をはじめとする現代の先進国経済はデフレが基調となっています。長期停滞論にもあるように、均衡金利はマイナスです。貯蓄がどんどん増え続ける事態を避けることが難しい。こうした経済状況にあって、まるで前世紀のインフレ時代と同じ前提で財政収支を論じても、もはや通用しません。財政収支を均衡させるために歳出を減らして消費税を増税する考えは、おそらく日本経済に「均衡縮小」という害悪をもたらすだけでしょう。

21世紀における日本のマクロ環境は、インフレ基調からデフレ基調へ180度変化したのです。ゆえに新たな財政収支の方法論もこれまでの方法から180度変えなければなりません。まさにコペルニクス的転回が必要です。それは、

①税収はフローからストックへ
②通貨は信用から100%マネーへ

①インフレ時代の税収はもっぱらフロー(循環する通貨)への課税が主流でした。それが所得税、消費税、法人税などです。これらはフローに応じて課税する方式です。そのため、循環する通貨の量が低下すると必然的に税収が減少してしまいます。

インフレ基調の時代は通貨の循環量が増加しやすい性質がありました。だからこそインフレになるのです。ですからインフレ時代にはインフレを抑制するためにもフローに課税することが機能的だったと考えられます。しかしデフレ基調の時代になると、おカネが貯蓄によって退蔵するようになるため、循環する通貨が徐々に減少する性質に変わります。まさに180度、変わってしまったのです。つまり貯蓄が増加しやすい性質に変わったのですから、貯蓄つまりストックへ課税することが機能的だと考えられるのです。

②今までの通貨制度は市中銀行の信用創造によってすべての通貨が供給されてきました。日銀はその元になるベースマネーを発行していたに過ぎません。

インフレ基調の時代は企業の借り入れが増加する傾向にあるため、市中銀行の信用創造によって世の中のおカネはどんどん増え続け、その増えるおカネに乗って経済は拡大しました。しかしデフレ基調の時代になると企業の借り入れは減少し、その結果、信用収縮によって世の中のおカネが減り続ける事態が生じるようになりました。まさに180度、変わってしまったのです。世の中のおカネが減る事態を防ぐために、政府が借金して信用通貨の量を維持しなければならないのです。これが政府債務の増大する遠因なのです。

ですから、財政を健全化するためには、政府が借金することなく世の中の通貨の量を維持することのできる通貨制度、100%マネーに移行することが機能的だと考えられるのです。

残念ながら新聞マスコミには、こうした「インフレ基調からデフレ基調へ」というマクロ環境の決定的な変化がまったく考慮されていません。時代が変わり、21世紀になってもなお、相変わらず新聞マスコミは「頭の構造がインフレのまま」なのです。

このあたりの話は、もう少し丁寧にして、本編サイトの記事にでもしてみようと思います。


2017年7月14日金曜日

賃金上昇なき生産性の向上が推進中

御用組合の親玉である「連合」の神津会長がまたしても「政府に忖度」かw。例の残業代ゼロ法案に修正条件付きで応じるという。消費税の増税容認に続き、さすがは御用組合の親玉という感じですね。

Y新聞には労働基準法改定で「生産性の向上に期待」と書かれてありました。新聞マスコミは相変わらずのんきなものです。とりあえず「生産性の向上」と書いておけば大衆の受けがいいから見出しに書いているだけで、彼らが生産性の意味を深く説明することはありません。都合の悪いことは報道しない自由ですから。生産性の向上には二つの方法があると考えることが出来ます。

①生産効率の向上により、時間当たりの付加価値を増やす
②賃金を払わないことで、時間当たりの人件費コストを下げる

本来あるべき生産性の向上とは、①生産効率の上昇によって高められるべきものですが、②賃金カットによる生産性向上は、生産効率を高める必要はなく、単に賃金をカットするだけで実現します。残業代ゼロ法案はまさに②による生産性の向上なのです。

いくら残業しても一円も払わなくて良いのですから、人件費あたりの生産性(つまり収益性)が高まるのはあたりまえですね。

今回の労働基準法改定案は、その適応範囲が年収1075万円以上のプロフェッショナル職に限定され、全労働者の3%だということですから、今回の改定による影響は少ないかもしれませんが、問題は将来における「なし崩し的な拡大」のリスクでしょう。

残業代ゼロ法案とは、事実上の賃金カットです。つまり残業代カットの対象となる労働者の範囲が広がると、国民に支払われる賃金が減少し、国民総所得が減少するリスクがあります。合法的な賃金カットで国民総所得が減少すれば国民の購買力が低下し、消費が減少する可能性もあるのです。消費が減れば企業の売り上げが減るので、成果給としての賃金はさらに減るでしょう。これはデフレスパイラルと同じ構造を持っています。

つまり、将来的に考えると、なし崩し的な「残業代ゼロ労働者の拡大」によって、デフレが悪化する危険性もあるのです。ですから、もし連合の会長が安倍に条件を突きつけるとすれば、そうした長期的、マクロ的な視点も織り込む必要があるはずなのです。

ところが、悲しいかな目先の「労働者の健康への配慮」があれば容認するという。まさにミクロ脳ですね。ミクロでしか物事を判断できません。だからこそ、消費税の増税も嬉々として受けいれてしまうのでしょう。経団連は論外としても、自民党や民進党に期待できないだけでなく、なんと労働組合まで期待できない。日本国民は絶望的ですね。

自分が連合の会長だったらどうするでしょうか。

国民総所得の増大を条件にします。そうすれば賃金カットによるデフレ、貧困化を防ぐことができます。ミクロなんかどうでもいいので、マクロ政策として、ヘリコプターマネーによる小額ベーシックインカムのスタートを突きつけます。なぜ労働者がだらだら残業するのか?残業しないとまともな給料を得られないからです。逆に言えば、まともな所得があれば、だらだら残業しないでさっさと家に帰ってカネを使うでしょうw(使わないかもしれないけど)。

もちろん小額のままのベーシックインカムでは意味がありません。ベーシックインカム長期プランのロードマップに金額の増額を示し、労働者を含めたすべての国民のセイフティーネットを計画的に確立するビジョンを示します。働き方改革とセイフティーネットは車の両輪です。働き方改革だけではダメです。そして、このビジョンを、ひそかに安倍と交渉するのではなく、まず新聞マスコミにぶち上げて、世論を巻き込み、国民の認識に浸透させてから安倍に突きつけます。

話がでかすぎる?しかし、日本にはなぜ話のでかい野心家はいないのでしょうか。話のでかいのは「イデオロギーに染まったヤツ」か「グローバル拝金主義者」ばっかりです。本当に悲しいと常々思っています。


2017年7月13日木曜日

災害危険地域から計画移転すべきか

毎年のように豪雨災害が発生して多くの人命が失われています。地球温暖化により、こうした豪雨災害はますます増える可能性もあります。こうした状況の中で、土砂災害のような人命に関わるリスクのある危険地域から国策として人々を移住させるべきか、悩ましいところです。

ひとたび豪雨災害が起これば人命が失われるだけでなく、行方不明者の捜索などに自衛隊や消防をはじめとする膨大な人々が投入され、多くの人に苦労をかけることになります。こうした豪雨災害が地球温暖化の影響で今後ますます増えるとなれば、これは単にカネの問題では済まなくなります。

異常な集中豪雨はどこで起きるか分かりません。しかし、もし集中豪雨が襲ったときにどの地域・どの家が人命を失うほどに危険なのかをあらかじめ予測することはある程度可能です。そうした地域・家に住む人々が、もっと安全な地域に移住すれば死亡災害の発生を未然に防ぐことは可能です。

もちろん、そうした地域は全国にとても多いかもしれませんから、優先順位を決めて移住させる必要はあるでしょう。一度に全ては無理です。移転先は同じ地域の高台でも良いですし、別の地域でもかまいません。地域ごと極めて危険であれば、別の地域に集団移転もありえるのではないでしょうか。もちろん、国がすべての費用を負担するのです。カネは刷ればいくらでもあります。

かなり昔、まだアメリカ経済がサブプライムローン・バブルで沸き立っていたころ、テレビ番組で見たことがありますが、それによれば、当時アメリカを襲ったハリケーンによってミシシッピ川下流域が甚大な被害を被った災害を受けて、危険地域の町をまるごと安全地域に移転させる話がありました。もちろんアメリカと日本をまったく同じに考えることはできませんが。

日本社会全体として考えた場合、リスクの高い地域に分散して人々が生活していては、すべての地域の安全性を確保することは難しいですし、災害発生時の対応も大変です。災害対応は工場生産などと違って機械化が難しく、マンパワーが不可欠なので、人口減少社会では災害対応の緊急体制の維持が困難かも知れません。ある程度、安全な地域に人々が集まって生活したほうが、社会全体から見れば運用が楽に出来ます。

とはいえ、災害危険地域やその家に愛着を持って住んでいる多くの人々もいるため、強制的に安全地域に移住させるのはどうなのか、気になるところです。地域によっては廃村になるわけですし、それらが地域文化的に何らかの影響を及ぼさないか心配でもあります。希望者だけ移住させてしまえば、地域社会が成り立たなくなります。

しかし、これまで考えられなかった豪雨災害が多発する日本になってしまうのであれば、災害危険地域の扱いに対して、妥協が可能な何らかの政策を検討する必要があるのかも知れません。悲しいことですが。

2017年7月12日水曜日

官僚の忖度は厳重に禁止すべき

一般の日常生活とは異なり、行政が忖度で動けば不透明性が増します。官僚の忖度行為が公的な利益を損なうことがないよう、忖度を厳しく禁止する必要があります。そうしなければ国民不在の「公益に反する忖度」が続くことになるからです。

忖度とは「他人の心を推しはかること」だそうです。そしてそれは日常生活においては良い意味で効果的です。他人の気持ちを察して、本人が言わずとも行動する、何かをしてあげる。以心伝心。それは社会を円滑にする効果があるとも言えます。

しかし、行政という、きちんとしたシステムにおいて忖度が横行すれば、それは「あいまいさ」を増やすことに繋がります。すなわち「上位者が明確な指示・命令をすることなく、組織が何らかの行政活動を勝手に行なう」ことを意味するからです。責任の所在が不明確になり、行政の暴走を招きます。これは国民の立場から言えば許されるものではありません。

国民はまがりなりにも民主主義によって行政の長を選んでおり、その長の指揮命令に基づいて行政が運営されることを望み、それゆえに「透明性」すなわち、どのような指揮命令によって行政がどのように動いたのかを常に明確にされなければなりません。メモのようないい加減なものではなく、指示書のような、公的な文書です。

ところが忖度が横行すると、「公的な命令書なし」に「行政が勝手に動く」ことになります。国民のあずかり知らぬところで。はたしてこれで民主政治が機能しているといえるでしょうか。

権力者の側からすれば、こんな便利なものはありません。何ら証拠を残すことなく、つまり国民に説明することなく、暗黙の了解の下に、ひそかに行政を動かすことができるからです。忖度とは、官僚がこれに加担することを意味します。

これを防ぐ方法は「官僚の意思決定は公文書においてすべて説明できること」とし、重要事項における忖度を禁じることです。忖度して勝手に動くのではなく、重要案件の意思決定はすべて文書にて確認しなければ動かない。いちいち指示書、命令書を発行するのは面倒かも知れませんが、だからこそ勝手な解釈と行動を許してしまうわけです。

もちろん、言うまでもありませんが、日常業務のすべての指示を文書化しろという笑い話ではありません。

一方、「忖度をされた(させた)」側の責任は問えるかと言えば問えません。なぜなら、忖度は相手が行うことだからです。もし忖度をされた側の責任を問えるなら、相手をいくらでも陥れることが可能になってしまいます。例えば、官僚の側が公的に問題となる忖度行為を行った場合に、その責任を内閣に求めることが出来るとすれば、官僚は悪質な忖度をどんどん行って、政権を交代させることも可能になるからです。

行政の意思決定における忖度行為を法律で厳格に禁じてしまえば、いくら内閣から官僚に無言の圧力があったとしても「命令書が無ければ動かない」と突っぱねることができます。しかも合法的に突っぱねられます。それどころか、その時点で「圧力があった」と合法的に告発することもできます。

もちろん忖度にも違いがあり、公益を害したり、特定の対象に有利に働くような忖度もあれば、逆に公益に貢献する場合もあるでしょう。ですから忖度、つまり相手の意思を推し量ることを禁じるのではなく、その結果として意思決定・行動する場合、それをきちんと上位者に文書として報告すれば良いのです。裏で隠れて忖度する必要はありません。

行政の意思決定における透明性が求められている時代にあって、行政が忖度で動くことは良いこととは思えません。それを防ぐためには、忖度で勝手に動いた官僚を厳重に処分すると共に、その根拠となる法律を作ることが大切だと思うのです。

2017年7月11日火曜日

消費税によるベーシックインカムの問題点

「消費税によるベーシックインカム」を主張する人も居るようですが、これは「国民を平等に貧しくする」リスクがあります。デフレ時代における最適な財源は消費税ではありません。

消費税による税収は国民の総消費量に制約されるため、それを財源としてベーシックインカムを実施したところで消費総量を増やすことはありません。そのためデフレ経済を解消したり、経済活動を活発化させる効果はありません。それではデフレ・供給過剰の時代のベーシックインカムとしては無意味です。なぜでしょうか。

たとえば国民を一つの経済主体として考えた場合、総消費に投じられるおカネが100だったとして、そのうち20が消費税であれば消費税以外の部分は80です。その20をベーシックインカムとして国民に戻したところで、国民が消費に使うおカネの総額は80+20=100のままです。フロー(循環通貨)に課税して財源とすれば当然の結果です。

ただし、国民の総消費が増加しなくとも、再分配としての機能はあります。国民を高所得者と低所得者からなると考えた場合、高所得者の消費が減って低所得者の消費が増えると思われます。貧しい人にはメリットになるでしょう。しかし国民総消費から見れば「取って戻すだけ」なので、意味がありません。それどころか、通貨は循環するうちに一部分が必ず貯蓄つまり「退蔵」されてしまう性質があります。フローがストック(貯蓄通貨)になるのです。そのためフローは徐々に減り続け、社会はジリジリとデフレが悪化し続けます。非常に筋が悪い財源論です。

とはいえ、もし50年前のインフレ時代にベーシックインカムの財源を消費税に求めるとすれば、優れているでしょう。なぜならインフレ時代は供給力が総じて不足しているため、ベーシックインカムによって国民総消費を増やすと、インフレが激化してしまうからです。このため総消費を増やさずに再分配を行うには消費税が財源として適しているのです。

仮に消費税ではなく所得税を財源とした場合はどうでしょう。所得は消費活動の前段階にあります。所得のうち、貯蓄を除いた部分が消費に向かいます。一般に高額所得者ほど貯蓄率は高くなるため、累進課税により高額所得者の所得に課税するほど、貯蓄によって退蔵されるおカネの量(ストック)は減少すると考えられます。つまり有り体に言えば、「貯め込むヤツに渡すカネを減らして、貧しい人に配れば、貯蓄せずに消費に回る」という話です。

ただし、この場合もフローである「国民総所得」がボトルネックになります。国民総所得よりも多くの消費を促進することは、逆立ちしても不可能です。所得税を財源とするベーシックインカム制度は、国民経済からみれば、貯蓄によって退蔵される通貨の量を抑制する効果しかありません。

一方、資産家がしこたま貯め込んでいる「貯蓄」ストックに課税してこれを財源とすれば、貯め込まれて死蔵されていたおカネが世の中に出てきますから、フローが増加して経済活動が活発化する可能性があります。あるいはヘリコプターマネーのように、通貨発行によってフローを増加させても同様です。この場合は循環するおカネの増加によって消費が伸び、国民の経済規模が拡大します。すべての国民が豊かになれます。世の中のカネを回しながら、ベーシックインカムを行う。これが経済的に優れた方法です。

ただし、この方法はテクノロジーが進化し続ける今日のデフレ時代、つまり供給過剰の時代において優れているのであって、50年前のインフレ時代に行ってはいけません。つまり最適財源は「絶対的」に決まるのではなく、経済環境によって相対的かつ柔軟に最適解を求めるべきなのです。

むしろ、絶対的に消費税を財源とするベーシックインカムの論は、財務省による「消費増税のための口実」に利用されるリスクが高いと考えられます。少なくともリベラルな人々は、ベーシックインカムをこうした増税の口実に利用されないように十分な注意が必要だと思います。そのベーシックインカムは、国民を平等に貧しくしてしまいますよ。

頭は常にやわらかく。
本当の財源とは、カネのことではないのですから。

2017年7月10日月曜日

良い国会と悪い国会

安易なタイトルですが、こういう表現が結局のところ解りやすいと思うのです。こんなクダラナイ国会をいつまで続けるのか。どんな国会が良くて、どんな国会が悪いのでしょうか。

良い国会は、国民生活を向上させるための政策に関して、与野党が激論を戦わせる国会です。例えばヘリコプターマネー(ベーシックインカム)や日銀の国債引き受け、消費税減税、金融資産課税と再分配など、国民生活・国民経済に関する議論はいくらでもあるはずです。

野党はこうした政策を打ち出し、「一歩も引かない態度」で議論を行う。国会で未来のビジョンを説明して法案を提出し、自民党を挑発する。学者も動員する。とにかく、口を開けば政策を、しかも具体的で計画的なプランや法案を出しまくる。こういうスタンスで自民党をどんどん攻撃していただきたいのです。

すると、国民の意識も変わる。ヘリマネも日銀の引受も、消費税の減税も税制改革も、国民は意識が低すぎ、ほとんど知識を持っていません。しかし野党が朝から晩まで繰り返すと、国民にも徐々にその知識が浸透してゆくのです。これまでのような「国民の生活が第一」なんてお題目は意味がありません。「具体的な政策と実行計画」がなければ美辞麗句に過ぎないからです。具体的政策、実行計画、法案、学者を巻き込んだ議論などが必要です。

これが行われる国会は、良い国会です。こんな国会は興奮するでしょうねえ。日本はもしかすると変わるかも知れませんよ。わくわくします。若者もきっと政治に関心を持つようになるでしょう。

悪い国会は、国民生活などそっちのけで、政策議論ではなく政権の引き摺り下ろしが目的化している国会です。まさに、「日本の伝統的な国会」がこれです。多少なりとも意識の高い国民は、ヘリマネ、消費税減税、財政支出拡大など国民経済に関して議論が進むことを期待しています。ところがそんなものはおかまいなし。政策議論は一歩も進まず、あいもかわらず、何十年も昔ながらの「政争」が繰り返される日本の国会。

プロ市民の皆様はおお喜びでしょうが、政策で日本を変えたいと願う多くの無党派国民は絶望しています。いったい、何十年おなじことを繰り返すのか?私が死ぬまで、こんな無為無策を繰り返す国会を見せられるのか?

無能の新聞マスコミは「政権を批判することが役割」だと勘違いしているらしい。そのため、とにかく政権をこき下ろせば満足している。紙面やネットで挑発的な記事を書き、国民を煽り立ててポピュリズムを先導しているに過ぎません。冗談ではありません。政策議論を前に進めろと言いたい。どうせ挑発するなら「政策で挑発すべき」です。

騒ぐだけ騒いで、何もなさない、何も残らない。これが延々と繰り返されてきたのが日本の国会です。これで新聞マスコミが「みなさんもっと政治に関心も持ちましょう」など、アホらしいにもほどがあります。こうした新聞マスコミの「政策なき批判」が、ただ単に国会や政治家の不信感を煽り、国会や政治家を頭から「ムダ、無意味」と思わせ、それらに対する関心を失わせてきたのです。

日本は世論を挙げて、政策の論争に明け暮れるべきです。口を開けば政策。そうしなければ、日本はこのまま永遠にずるずると自民党と官僚の利権政治のままに引きずられ、沈んでゆくだけだと思います。

まあ、こんなことを言っても、私が新聞マスコミと一緒になって安倍政権を批判しなければ「安倍信者」のレッテルを張られるんでしょうけどね。情けない人たちです。

2017年7月7日金曜日

しらけた国会、無党派から見れば

安倍一強といわれる中で訪れた、政権攻撃の千載一遇のチャンスに飛びつく野党と大騒ぎのマスコミ。昔ながらの野党の支持者はここぞとばかり喜ぶのでしょうが、一般の無党派国民から見れば「またはじまったわw」という、しらけた印象に過ぎません。

政治家の滑った転んだで、野党やマスコミが大騒ぎするのは「恒例行事」の一つです。恒例行事が終わっても、結果として何も変わりません。政治家が変わったところで、システムは何も変わらないのですから、何も期待できないのはあたりまえです。実際、過去に政治家が交代しても「国民の生活は何も変わらなかった」。だからしらけている。まるで野党に期待してもムダなのです。

確かに野党議員にとって、既存の、昔ながらの支持者のために大騒ぎする気持ちはよく分かりますね。大切な顧客ですから。しかし昔ながらの支持者ばかりでは「ジリ貧」は免れられません。支持者の拡大こそ必要です。なんと国民の4割は支持政党を持たない無党派、しかも自民党支持層の多くも流動的な層に過ぎません。そこから支持者を引き抜かないでどうするんでしょうか。何十年も昔となんら変わらない「労働闘争」みたいな手法で、新たな人々の支持を勝ち取れると考えているんでしょうか。

国民は自民党にも野党にも期待していない。だから東京都知事選では「都民ファースト」のようなイメージ政党にも大量の票が流れる。政権交代を実現するならば、他党を引き摺り下ろすより、こうした現象を参考にすべきだと思います。言っちゃ悪いですが、庶民はあたらしもの好きです。

だから、大胆に政策転換でもしない限り、与野党逆転、政権交代はムリではないでしょうか。確かに大胆な政策転換を実施することはリスクがあります。昔ながらの労働組合活動系の支持者を失うかも知れないからです。野党はそれを恐れているため「極めて保守的な野党」になっている気がします。しかし多数決の民主主義においては、少数のイデオロギーエリートの支持者を得ても、政権は実現できません。きっぱり捨て去るべきだと思います。

自民党の経済政策は、基本的に拝金主義そのものです。その根底に存在するのは「財務省」です。曰く、カネがないから何も出来ない。増税しないと何も出来ない。頭がカネに支配されているのです。こうした自民党の拝金主義の軸に対して、真っ向から対立する、カネの価値に固執せず、供給力の拡大と財の分配のためにカネを大胆に利用する軸を打ち出せば、まさに自民党と大きく差別化できるのです。

野党は国民の度肝を抜くくらいのビジョンを打ち出してみるべきでしょう。もちろん政治家の頭脳では、あまりにも足りないので、多数のブレーンとなる学者を擁して研究会のようなものを立ち上げ、提言をまとめていただくなどの方法も必要だと思います。

そういう度肝を抜く提言を是非みてみたい、
そうして生まれ変わる野党を是非みてみたい。

しかし、今の野党の空騒ぎと、踊るマスコミ報道を見る限り、そんなことは100年経っても不可能だとわかり、絶望してしまうのです。

2017年7月6日木曜日

ベーシックインカム議論に時間軸を

ベーシックインカムに関するネット上の議論で違和感を覚えるのは、それが「今すぐ完全BIをやったらどうなるか」という話が中心になっていることです。しかし段階的に推進する前提で考えるとまた話は別だと思うのです。

ベーシックインカムに反対する人たちの主張は、例えば人々が働かなくなるとか、労働意欲が低下するとか、あるいはそれに伴って供給力が低下してインフレが生じたり、人手不足から介護等が困難になるとか、そういう話です。

しかし、これらは「今すぐに、ベーシックインカムを完全に、つまり月額10万円以上のおカネを無条件にすべての国民に支給するとどうなるか」という懸念です。確かにベーシックインカムはまったく新しい経済システムなので、いきなり毎月10万円以上でスタートすると社会にそうした混乱を招かないと言い切れないでしょう。しかし、そういう前提がそもそもおかしなはなしです。

未経験の制度は段階的に導入されるのが当然であり、それゆえベーシックインカムに関する議論も、段階的な導入を前提として行われるのが妥当だと思うのです。話が極論(ネガティブ)と極論(ポジティブ)のぶつかり合いなので、まるでピンと来ません。

現実的に考えれば、毎月1万円の支給から開始するとか、高齢者年金や子供手当てのような本来養育されるべき人々への支給から開始するとか、そうして段階的にステップアップするはずです。しかし、そうした話が新聞マスコミにはほとんど無い気がします。ネットの話も極論が多い気がします。

ベーシックインカムを支えるためには、財源(カネ)にあまり意味はありませんが、供給力(モノ)が不可欠です。供給力をささえるテクノロジー、人工知能やロボット、生産設備への投資などは徐々に増大しますから、そうした状況から考えても、ベーシックインカムはあくまでも段階的に導入する前提で、そのステップを検討すること、ロードマップを議論することが不可欠だと思います。

いきなり導入したらどうなるか、という議論では、話がかみ合うはずがないとおもいます。だから議論は「やるか」「やらないか」になってしまいます。人工知能とロボットが高度に進歩を続けている現代において必要な議論は「やるか・やらないか」ではなく、「どうやったらスムーズに導入できるか」だと思います。