2019年1月30日水曜日

ベーシックインカム動画第4話の原稿

ベーシックインカム動画の制作は、精神的に無理ないスピードまで下げているのですが、とりあえず、中間状況としてナレーションの原稿をUPします。気長に待ってくださいw。

第4話 ベーシックインカムの財源とは

はっはー、私は、ばらまきマンだ。前回までは、ベーシックインカムの概要について説明してきた。ところでベーシックインカムの話には、必ずある疑問が付きまとう。それは「ベーシックインカムとして国民に配るためのおカネをどうするか」つまり「財源をどうするか」という問いだ。だから今回はベーシックインカムの財源について考えてみよう。

さて、財源と言えば、一般的には「税金」や「おカネ」のことを連想するよね。でも、本質的に考えてみると、財源とはおカネではなく、財の供給力であることがわかる。ところで財という言葉はあまり聞き慣れないけれど、経済学においては、「財」とは「モノやサービス」を表す言葉であって、おカネではない。

食料品や衣料品、家電製品や住宅のようなモノや、飲食や観光あるいは医療や介護のようなサービスを財と呼ぶ。世間的には「おカネは財産だ」と言われるので、おカネと財は同じだと勘違いされやすいけど、まず最初に、財とおカネは別のものであることを確認しておく必要があるね。

もちろん、そうした「モノやサービス」といった財を人々に供給するには、おカネが必要だ。でも、いくらおカネがたくさんあっても、肝心のモノやサービスが不足していたら、それらを人々に供給することはできない。つまりベーシックインカムの財源にとって重要なのは、モノやサービスを供給する供給力であって、おカネそれ自体ではない。

逆に言えば、おカネは政府が発行すれば、簡単に調達できる。昔は輪転機を回しておカネを発行しなきゃならなかったけど、今はコンピューター上で、電子的に、いくらでも、瞬時におカネを発行できる。だから、モノやサービスが十分にあるなら、おカネそのものの不足を心配する必要はないんだね。こうした経済における本質的な部分に注目すると、「ベーシックインカムの財源の本質は、おカネではない」と、理解できる。これが重要だ。

何しろ財源の話になると、財の供給なんかそっちのけで、おカネの収支の話ばかり始める人たちがいるが、これは財源に関する検討としては、大きくピントが外れていることになる。

以上から、ベーシックインカムの財源を考えるには2つのアプローチが必要だとわかる。
①財の供給力を確保すること
②おカネの循環を検討すること

ベーシックインカムの財源を考える上で最も重要な点は①「財の供給力を確保すること」だ。モノやサービスが不足すれば、ベーシックインカムは成り立たない。逆に供給が十分に確保できるなら、②「おカネの循環を検討すること」によって、生産される財をどのように社会に分配するかを設計するだけでよい。極論を言えば、財の供給さえ確保できるなら、おカネの循環はいかようにでもなると言える。では、それぞれどのようにすべきかを考えてみよう。

①財の供給力を確保すること

財の供給は、生産資本と労働力、資源によって成り立つ。つまり、生産するための機械設備や土地、建物といった生産資本が必要であり、そこで働くための労働者も必要となる。そして木材や、鉄、アルミニウムのような金属、エネルギーとして電気、石油のような資源が必要となる。これらを十分に確保できるかが重要だ。

ベーシックインカムが実現すると、将来的には働かずに生活する人が増えるので、労働力は必然的に大きく減少すると考えられる。そうなると、労働力が不足するため、財を生産することが難しくなってしまう。だから「人間が働かなくても財を生産できる」人工知能やロボットのような機械を実現するために、研究開発が極めて重要になる。

また日本は資源に恵まれない国なので、資源を外国から買うために、商品を生産して輸出する必要がある。輸出する商品の価値を高く維持する必要があるので、輸出商品の研究開発力、技術力も高くなければならない。だから、人工知能やロボットの開発、輸出商品の開発に政府がどんどん支援する必要がある。

また、地球の資源は量が限られているので、供給力を維持するためには、リサイクルや再生可能エネルギーのような、持続可能なシステムを構築しなければならない。ここでも研究開発が欠かせない。そしてそれらが十分に高いレベルにあって、財の供給力を高いでレベルで確保できれば、財源の本質的な問題は、ほとんど解決したと言える。

②おカネの循環を検討すること

財の供給量が十分であれば、それをどのように分配するかが残された課題だ。その際に重要なことは「おカネは循環することではじめて機能を発揮する」という点だ。財源について考えるとき、多くの人はおカネが循環するという点を忘れている。おカネは使うと消えてしまう、と思い込みがちだが、実際には、同じおカネが生産者と消費者のあいだをぐるぐる循環することで、おカネとしての働きを発揮しているんだ。

例えば、現在の社会におけるおカネの循環を簡単に模式化するとこのようになっている。現代社会の消費者の多くは同時に労働者でもある。つまり、消費者は、生産者である企業に労働力を提供して、代価として賃金、つまりおカネを受け取っている。そのおカネを企業に払って、企業が生産した財すなわちモノやサービスを受け取っている。このおカネは企業の売り上げとなり、再び賃金として消費者に支払われる。こうして、おカネは消費者と生産者の間をぐるぐると回り続けているんだ。

ところが、もし仮に、人間の労働がすべて機械に置き換わったらどうなるか?人間が働く必要はなくなるのだから、消費者である労働者が企業で働くこともなくなる。すると、生産者である企業から消費者に賃金が支払われることもなくなる。すると消費者にはおカネがないから、生産者が生産した財を何も買うことができなくなってしまう。すると商品がまったく売れなくなって、企業も倒産してしまう。

つまり、消費者と生産者の間でおカネが循環しなくなってしまい、経済システムが破綻する。もちろん、これは極端な話しだけど、もし人工知能やロボットがこのまま進化すれば、働く人が減って、おカネの循環が低下し、経済活動が停滞する、今で言えば、デフレ不況になってしまうんだ。

そこで、消費者と生産者のおカネの循環をきちんと成り立たせるために、政府がベーシックインカム制度を導入する。これまでは、生産者である企業が、消費者に賃金としておカネを供給してきた。しかし、将来的には企業から消費者に賃金が支払われなくなるから、代わりに政府が消費者にベーシックインカムとしておカネを供給することになる。消費者はそのおカネを生産者に支払って財を買うことができる。

一方、生産者である企業には売り上げとしておカネがどんどん集まるけど、賃金を払うわけじゃないから、企業にはおカネがどんどん積みあがる。そこで、そのおカネを政府が徴収して、再びベーシックインカムとして消費者に配るわけだ。これによって、生産者と消費者の間のおカネの循環は成り立つ。これがベーシックインカムの財源に関する基本的な考え方なんだ。

そして、生産者である企業に集まったおカネをどうやって政府が徴収するか、これが具体的には税制なんだけど、話が長くなるから今日は省略するよ。それと、この図は物凄く単純なので、実際のおカネの流れはこれだけじゃない。どれほど機械が進化しても、一部では人間が労働して賃金等の報酬を企業から受け取る場合もあるし、株式の配当金として株主のような資産家に流れるおカネもある。貯めこまれてしまうおカネもある。だからこれ以外にも財源として考えなきゃならない点はいくつかあると思う。

さて、今日はベーシックインカムの財源について考えてみた。財源について細かく考えると、考えなきゃならないことはたくさんあるはずだ。しかし、基本的な仕組みはここで説明した仕組みになると思う。つまり、生産者から政府がおカネを徴収し、それを消費者にベーシックインカムとして分配することで、世の中のおカネを滞りなく循環させるしくみだ。一般的によく言う財源とは、通貨の循環の仕組みに他ならない。税金を取る、取らないという単純な話ではないんだ。

そして財源の本質はあくまでも「財の供給」にある。だから、技術力を高めて、人工知能や自動生産ロボットを作り、リサイクルや再生可能エネルギーを実現することが、本質的にベーシックインカムの財源を確保することになるんだ。

それじゃあ、今日はこれまで、ベーシック!

なお、1~3話のナレーション原稿もサイトに公開しました。
https://sites.google.com/site/nekodemokeizai/
動画の貼ってある、下のあたりにリンクあります。

2019年1月28日月曜日

ほとんどの人は、国の借金を普通の借金と勘違い

国の借金を返さなきゃならない、とマスコミが大騒ぎしています。しかし、皆さんご存知ないですが、借金には仕組みが2種類あるんです。それ知らないとまずいですよ。

バランスシートという、企業では当たり前に使われる財務帳票がありますが、その仕組みから言えば、借金、つまりおカネの貸し借りには2種類あるんです。それは、簡単に言えば、

①普通の借金
友達が10万円を保有しています。その10万円をあなたが借りて、後日、10万円を返します。返したおカネは友達の所有に戻る。これが世間一般の考える「借金」、貸し借りの関係です。

②銀行からの借金
銀行が保有している10万円を貸すのではなく、銀行が信用創造で預金10万円を無から新たに作り出します。その10万円の預金をあなたが借ります。後日、返したおカネは銀行の所有に戻るのではなく、消滅します。これは、世間一般の人は知らない仕組みですが、これも貸し借りです。

ほとんどの日本人は、国の借金を①普通の借金、だと考えています。普通の借金の場合、もともと、おカネは友達の所有物なので、友達から借りたおカネは返さなきゃならない。返してもらわないと友達は困ります。あたりまえですね。なので、国の借金も返さなきゃならない、と考えるのは当然でしょう。マスコミも財務省も、そういうスタンスで騒いでいます。

しかし、国の借金は②なんですね。もともと、誰も所有していないおカネを銀行が勝手に作り出して、借り手に貸します。借金が返済されると、返済されたおカネは消えます。もともと、銀行は誰かから集めたおカネ、誰かのおカネを貸すわけじゃないのです。だから、無理矢理に返す必要はない。ただし、銀行としては「利息」が欲しいわけです。だから、利息を払えば、誰も困らないのです。誰か困りますか?

ところが、ほとんどの日本人は、国の借金は、友達からおカネを借りた借金と同じだと思っています。なぜなら、マスコミから政治家から官僚まで、①と②の違いを「報道しない自由」しているからです。①と②の違いを聞いたこと無いでしょw?おそらく意図的なんです。だから多くの人が「国の借金を返さないと困る人が出てくる」と勘違いしています。

さらに言えば、国債とは自由に売買できる債券なので、ますますもって、友達から借りた借金とは違いますね。なのに、口を開けば「国のシャッキンガー」とマスコミが騒いでいます。国民を勘違いさせるためです。

この国債を日銀が銀行から買い取れば(=量的緩和)どうなるか?国(政府)は日銀に借金していることになります。つまり、政府は日銀におカネを返すことになります。日銀も銀行です。ですから、やはり②銀行からの借金に該当します。となると、日銀に政府がおカネを返すと、おカネが消えます。

しかし、世の中からおカネを消したところで何の得になるのでしょうか。例えばインフレがひどい状況であれば、世の中のおカネの量を減らすことは意味があります。しかし、今は2%のインフレ目標すら達成できないほど、デフレあるいはディスインフレの状態です。世の中のおカネを減らす意味はないですね。

そして、日銀は銀行ですから、国債の利息が欲しいわけです。ですから、政府が日銀に利息を払いさえすれば、無理矢理に返済する必要は無いわけです。利息を払えば誰も困りません。では、政府の支払う利息はどこから調達するのか?これは税金になりますね。それじゃ、私たちが払う税金が増えるのか(増税)

そもそも、日銀は政府の機関です。政府の機関は税金で運営されます。財務省も経済産業省も、税金で運営されます。一方、もし、政府の払う利息で日銀が運営されるとしても、その利息の出所は税金ですから、本質的には日銀も税金で運営されていることになります。つまり同じです。

そしてもし、日銀を運営する経費を超えて政府が日銀に利息を払うなら、それは日銀の儲けになります。日銀の儲けは、国庫に納付する義務がありますので、運営経費を上回る分は、すべて政府に戻ってきます。したがって、日銀の運営経費を上回って、税金が増える心配はありません。

さて、話が少しだけ難しいかも知れません。もし、よくわからなかったとしても、これだけは覚えて欲しいですね。①友達からおカネを借りる、いわゆる「借金」と、②銀行からおカネを借りる借金は、本質的に違うという点です。国の借金は、①ではなく、②なのです。


国の借金を、普通の借金と同じだと勘違いしてはいけません。

2019年1月24日木曜日

左派・右派の違いは強弱・敵味方

ある人が、右派と左派の違いは、関心の対象が内と外、上と下の違いである、と主張していたが、それはちょっと例外が大きい気がしますね。むしろ右派と左派の違いは強弱と敵味方だと思います。

いきなり話がわかりにくいですが、最初からキチンと説明します。右派と左派の違いはどこにあるか?を考えたとき、ある人は、「右派は内側(日本)と外側(外国)の関係に注目する、だから、外交や軍事に興味の中心があり、中国や韓国などに厳しく、安全保障に熱心」と考え、また「左派は上(ブルジョアジー)と下(プロレタリアート)に興味の中心があり、搾取や格差に厳しく、社会保障に熱心」と考えているようです。

確かにこれは面白い考えだと思います。しかし例外が大きいと思います。なぜなら、今日の右派、いわゆる保守派と思われる人の多くが、内外の関係だけでなく、上下の関係、つまり格差の問題や社会保障の問題にも非常に敏感であるということです。つまり、右派の多くの人は内外にも上下にも強い関心があるのです。

そこで、別の分け方を考えてみることにしました。まあ、そんな風にステレオタイプな見方をするのは良くないのですが、しかし、右派や左派を理解する一助になるかもしれません。そのわけ方は、次のようなものです。

左派は強弱に関心がある、というか、弱者に関心があり、弱者を守ろうとする傾向があり、逆に強者を排除する、強者を嫌う傾向があるということです。極めて単純に言えば、弱者=善、強者=悪、とみる傾向があると思います。「弱きを助け、強きをくじく正義の味方」。なので、国内国外を問わず、弱者であれば、すべて善であり、守るべき対象になる一方、強者は悪であり、弱めたり、攻撃したりする対象にされます。弱者としての中国や韓国に対して好意的であり、強者としてのアメリカを嫌います。強い者が嫌いであって、自らの帰属集団にはあまり関心がないようです。そのように見えます。

一方、右派は敵味方に関心がある。敵か味方かを判別し、敵を嫌い、味方を好むわけです。この場合は、アメリカのような強者であっても、味方であると判断すれば好意的になります。しかし、アメリカのような強者は潜在的に敵となる可能性があるので、右派も潜在的に反米の気持ちがあります。反米右派です。もちろん、日本と対立がある中国や韓国は敵になりますから、当然ながら中国や韓国を嫌います。一方、日本と直接の利害関係のない国、つまり敵ではない外国に対しては非常に友好的になりますし、安全保障の観点から、積極的に味方を増やそうとします。

また、右派は同時にまた労働者階級でもあるわけです。労働者にとって労働者は同胞=味方です。経営者や資本家はある意味で敵ともなりえるわけです。身内つまり味方である労働者が貧困であるなら、それを許している経営者や資本家は敵なのですから、当然ながら攻撃対象となります。こうした敵味方の考え方は、自らの帰属集団を維持、拡大する価値観です。帰属集団はさまざまあり、国家、会社、社会階級、家族、サークルなど、さまざまです。

面白いことに、左派は女性が多く、右派は男性が多いように思われますが、これはおそらく性差による性格特性の違いによるものだと思われます。これは、自然界ではごく普通にみられる現象なので、驚くに値しません。が、あまりこれを書くと差別だといって絡まれるのでやめます。

だらだらと、思いつくままに書きましたが、以上のように、左派については弱者に興味が強く、右派については敵か味方か、帰属集団の維持拡大に興味がある、このように思いました。どちらも理性ではなく、人間の原始的な「本能」が、そうさせていることは間違いないのですが。


2019年1月22日火曜日

歴史認識は有害である

「歴史認識は有害である」という客観的事実を理解し、認めることにより、歴史認識に対して冷静、客観的に対処することができるようになる。それこそが重要です。

逆に言えば、歴史認識が重要かつ不可欠であり、それに基づく行動が義務であるかのような強い意識を持つと、歴史認識の問題に対して、強いこだわりを持ち、非常に過敏になり、熱心になり、
あらゆる場面においてその影響が現れてくる。簡単に言えば「感情の問題になる」。

もし歴史認識が有害であるという客観的な事実を受け入れるなら、たとえばこのようになる。

「歴史認識はこうだー」という感情に対して、「確かにそうかもしれないけど、歴史認識って有害なんだよね」という、冷静な立場を維持できる。白か黒かではなく、そもそも、白黒決着つけたところで意味ないじゃん、となる。有害な観念に、囚われる必要はないからだ。

こうした「歴史問題にこだわらない姿勢」をもって、「日本の罪を誤魔化そうとしている」、などと批判が出るだろう事は十分に予測可能だ。だが、歴史認識は日韓で食い違いがあるし、すでに100年近くもあとの今になって、事実関係を100%明らかにすることは不可能だ。結局は双方共に、推測がかなりの部分を占めることになり、白黒は決して明らかにならない。

一方、有益か有害かは判断が比較的容易だ。実際に、歴史認識によって何が生じるかを冷静に分析するなら、歴史認識には必要性が無いこと、むしろ害悪であることは明白だ。

この検討は比較的簡単であって、①歴史認識にこだわる場合 ②歴史認識にまったくこだわらない場合、のどちらがより双方に利益があり、友好的関係を長期的に築けるかを比較すれば良い。長くなるので、おいおい、こうした考察も展開したいが、簡単に言っても、②の方が明らかに優れていることがわかるはずだ。

仮に、②歴史認識がなかったとしても、植民地支配・被支配の関係が未来において繰り返される可能性(日本が韓国を支配する)はゼロだろう。現代の国際情勢や価値観は、100年以上前の昔とは、比較する意味すらないほど違う。

それどころか、逆に①歴史認識にこだわることが、日韓の対立の解決不能な状況を生み出している現状をみると、これこそが、再び悲劇を繰り返す原因になりかねないとの懸念が強い。

もちろん、一度、刷り込まれた固定観念を簡単に払拭することはできない。歴史認識の問題は、ほとんど「感情のレベル」に刷り込まれているからだ。理性で理解しても、気持ちが治まらない、腹が立つ、そういうレベルだ。そんなものを両国民の気持ちの済むような形でクリアに解決できることは不可能だ。

だからこそ、「歴史認識は有害である」という、理性的な損益判断をしっかり認識することが重要であり、それが感情を冷却させる。そこが原点だ。最も重要な点だ。歴史認識ではなく、いまある利益をしっかり見つめ、日韓友好の道を歩むべきである。

2019年1月18日金曜日

経済政策は、政権奪取のための道具なのか

庶民の政治的な関心の中心は、もちろん日々の生活向上であり、生活を支える経済政策、景気対策にあることは当然でしょう。ですから、各政党の経済政策の目的は、生活を向上するためであるはずですが、そうとは限らないようです。

つまりこういうことです。経済政策によって人々の生活を向上させる(あるいはそのような公約を示す)ことによって、選挙を有利に戦い、政権を奪取したなら、もちろん公約に基づいて経済政策を行なうわけです。しかし、彼らの本当にやりたいことは経済政策ではなく、極端に言えば、安倍政権なら「憲法改正」であり、野党なら「米軍を追い出す」ことであるわけです。つまり、本当にやりたいことはイデオロギー(政治信条)のようなものであって、経済政策は、民心を掌握するための道具であるというスタンスです。もちろん、すべてがそうだとは言いませんが。

まあ、それでも庶民としては生活さえ向上すればそれでよし、呉越同舟、同床異夢というところかも知れませんが、何かしっくりこない感じもします。

なぜなら、手のひら返しがあるんじゃないかと心配するからですw。そもそも庶民の生活向上が至上目的ではありませんから、いつなんどき、庶民の生活向上とイデオロギーを天秤にかけないとも限りません。もちろん、そうしたイデオロギーに基づく諸活動もすべて「庶民の生活のためなんだ」と主張することはまちがいありません。なにしろ、消費増税を堂々と主張する大新聞・大マスコミも「庶民のために庶民に増税する」とか平気で言いますから、何とでも言えます。

とはいえ、庶民の生活なんかほったらかしで、イデオロギー論争なんかやっている連中ばかりでは、天上の戦いを見ていうようなもので、庶民にとって政治や選挙なんかまるで無関係なままです。まずは、どうやって人々の生活向上を図るのか、それを活発に議論して欲しいところですし、単なる抽象論ではなく、マクロ経済学的な知見も交えて、より深く、濃い議論が必要です。これまでのような子供だましのレベルではダメですね。

そうした意味では、各政党が政権奪取のために、より、経済政策に磨きをかけ、庶民に提案するようになることは、前進であると思います。

政治なんて、所詮はどろどろした汚いものであって、美しい理想形を求めるのはナイーブ過ぎるかも知れません。互いに利用し、利用され、それでも何かよりよいものを掴み取りたいですね。

2019年1月17日木曜日

マスコミはグローバルの実態を理解しているのか?

マスコミ、あるいはグローバリストの識者は日本のグローバル化を無批判に喜んで勧めてくるが、そのグローバルな世界の価値観に日本がすんなり対応できると考えているのだろうか。

最近、日本に対する風当たりが厳しい。隣の韓国は、日本の自衛隊機に対するレーダー照射問題に対して、ほとんど証拠を示すこともなく、状況からいっても、ほとんど意味のない反論をしてきている。そもそも照射されてもいない日本の自衛隊から、先に抗議するなどありえないのだ。明らかに韓国の主張には不利な状況がある。にもかかわらず、悪いのは日本であるとして、まったく引かない。つまり「どんなに不利でも、仮にウソでも、主張を押し通す」。

これは、日本人的な価値観から言えば、あり得ない非常識な態度であり、日本人の多くが「韓国が悪い」と思うかもしれない。しかし、そうではないと思う。むしろ、韓国の「どんなに不利でも、仮にウソでも、主張を押し通す」態度こそ、世界のグローバルなスタンダードだと理解すべきではないか。

これは、特別背任などの容疑で逮捕された日産のカルロス・ゴーン氏も同じだ。日本人なら、潔くあきらめて罪を認めるのが当然と思うだろう。しかし、「どんなに不利でも、仮にウソでも、主張を押し通す」態度こそグローバルスタンダードなのだ。だから、日本人の目には、ゴーン氏は悪人に見えるかも知れないが、欧米人にしてみれば、あれがあたりまえと思うのではないか。もちろん、それとは別の問題として司法制度の問題はあるが。

つまり、グローバル・グローバルなどと喜んでいるが、そもそも日本人に、こうした「どんなに不利でも、仮にウソでも、主張を押し通す」ことが、自然に、違和感なくできるようにならなければ、とてもじゃないが本当の意味での「グローバル化」など、あり得ない、単にビジネスの上で、金儲けのためのグローバル化にとどまるのではないかと思うのです。

グローバリズムは、単にシステムの問題だけではない。単にシステムだけ同じ土俵の上に載せても、対応はできないのです。しかも、日本人の大部分がそのグローバルスタンダードに合わせて価値観を修正せざるを得ないのだとすると、それは日本人としての特性を失うことを意味する。価値観の多様性はどこへいったのか?

また、逆に言えば、なぜ日本人が欧米の価値観にあわせなければならないのか、むしろ、世界こそ、日本の価値観に合わせるべきだとの視点もあってしかるべきだろう。

もちろん、マスコミやグローバリストはそんな心配はしていないだろう。彼らにとって重要なのは何よりも「カネを儲けること」だからです。