2021年11月13日土曜日

バブル経済を再評価せよ

2021.11.11

 マスコミや多くの識者は、バブル時代を思い出したくもない、全否定すべき時代のように語る人ばかりです。しかし少なくともバブル時代を経験したことのある人々ならわかるはずです。あの時代の方が、今より遥かに良い時代だったと。

 もちろん、バブル経済、バブルの時代をそのまま受け入れようという話ではありません。バブルと同じことを今日の日本に引き起こせば良いわけではありません。そうではなく、バブル時代の「悪い事」を繰り返すことなく、「良かった事」を今の時代に再び取り戻そうという話です。マスコミや識者のように、短絡的にバブルを悪いものとしてあの時代を全否定するだけでは、何も学ぶことはできないのです。では、当時の日本経済はどんな状況だったのでしょうか。

<バブル時代の日本>

・世の中にカネが溢れていた。何より国民がおカネを持っていた。

・消費意欲が旺盛で、高級品がばんばん売れ、景気は絶好調だった。

・企業利益も増大し、企業の投資意欲も旺盛だった。

・非正規雇用(アルバイト)の所得が正社員より良かった。

・子供の貧困など、貧困問題は少なかった。

・インフレも低い水準だった。

・財政赤字の問題は、無かった。

・「JAPAN AS No.1」と呼ばれた。

 では今日、日本経済が復活できない構造的な要因と指摘されていることが、当時はどうだったのか見てみましょう。

<バブル時代の社会構造>

・賃金は年功序列だった。

・雇用は終身雇用制だった。

・規制は緩和されていなかった。

・グローバル化は進んでいかなった。

・それでも経済が絶好調で「JAPAN AS No.1」と呼ばれた。

 つまり、今日、マスコミや識者がしたり顔で指摘する「日本の悪い点」がすべて、当時の日本社会に装備されていた。にもかかわらず、「JAPAN AS No.1」と呼ばれたほど経済が絶好調だった。これは何を意味するのか。こうした事実に、ほとんどのマスコミや識者は目を背け、口を閉ざします。では、当時と今では何が決定的に違うのか?

・バブル時代には、世の中におカネが溢れていた。

・国民がみんなカネを持っていた。

 これは、マネー供給のグラフを見れば一目瞭然です。


 マネーの供給が劇的に減少したことで、経済が一気に縮小したのです。年功序列とか岩盤規制とか高齢化とか、そういうことが原因で経済が縮小したのではありません。カネが世の中から消えた、そのことが不況と失われた20年の元凶なのです。だからこそ改革と称する方法、つまり、世の中のカネを増やさずに、他の方法で景気を回復させようとする考え方そのものが、大間違いだと確信を持って言えるのです。何を差し置いても、まず最優先に世の中にカネを溢れさせ、国民におカネを持たせなければならないのです。

 しかし、ここで大きな問題があります。どれほどバブル時代が良かったとしても、おカネが溢れることが良かったとしても、それが崩壊してしまったら意味がない、それどころか、かえって大問題を引き起こすことにも成りかねない、という点です。バブル経済の致命的な欠陥は、ここにあります。

 従って、崩壊しない方法で、世の中におカネを供給し続ければ良い、との結論を得ます。

 そんな方法はあるのか?それを考える前に、まず、バブル時代には、なぜ世の中におカネが溢れていたのか?それが、なぜ崩壊するのか?それを理解しなくてはなりません。これは難しいことではありません。

 バブル経済は「バブル」という言葉の通り、資産バブル、すなわち、土地や株式などの資産の価格がどんどん上昇することで生じる好景気の事です。なぜ資産の価格が上昇すると、世の中におカネが溢れるのか?それは、企業や個人が「銀行からの借金によって資産の売買を行う」からです。企業や個人が自分の手持ちのおカネの範囲で資産の売買をするだけでは、資産価格はそれほど値上がりしません。手持ちのおカネの量は限られているからです。ところが銀行から借金したおカネを利用して売買を行なえば、取引に利用されるおカネの量が増えることで、資産価格は大きく上昇します。

 今日の金融制度(準備預金制度)においては、銀行は保有している預金を貸し出すわけではありません。銀行は新たにおカネ(預金)を発行し、それを貸し出します。従って、企業や個人が銀行から借金をすればするほど、世の中のおカネの量が増え、そのために世の中におカネが溢れます。

 ということは、世の中におカネが溢れる一方、企業や個人の借金もどんどん増え続けることになります。バブル経済においては、資産の価格がバブルになるだけではなく、借金もバブルのように膨らみ続けます。そして、中央銀行が金利を引き上げると、それら膨大に膨れ上がった借金の金利を返済できなくなり、経済は一気に崩壊します。ですから、資産価格の上昇によっておカネを増やすことは、非常にリスクが高いことがわかります。では、企業や個人の借金を増やすことなく、世の中のおカネを増やす方法はないのでしょうか?その方法は大きく二つあります。

「世の中のおカネを増やす方法」

①政府がおカネを発行する

②永久国債を日銀が引き受ける

①政府がおカネを発行する:最もシンプルな方法は、政府がおカネを発行することです。これは政府貨幣(政府コイン)と呼ばれます。今日においても、500円や100円のような硬貨は、政府貨幣に該当します。ただし、おカネとしては補助的に使われているに過ぎず、ほとんどのおカネは政府ではなく日本銀行が発行しています。これを法改正などによって、政府が高額なおカネを発行できるようにすれば可能です。

②永久国債を日銀が引き受ける:あるいは政府が永久国債を発行し、それを日銀が直接に引き受ける方法です。なぜそんな面倒な事をするのか?現在の金融システムにおいては、誰かが借金をしなければおカネは供給されません。先ほどご説明したように、銀行はおカネを新たに発行して貸し出しを行いますから、おカネを発行するにはだれかが借金しなければならないわけです。ですから、政府がおカネを世の中に供給するには、国債を発行する必要があるわけです。日銀が国債を買い取る際には、日銀がおカネを発行して買い取りますので、その代金(現金)を政府が受け取れば、財政支出を通じて国民におカネを配ることができます。

①政府がおカネを発行する:この方法であれば、バブル経済のように崩壊するリスクはありません。なぜなら、誰の借金も増えないからです。バブル崩壊の原因は、借金が返せなくなるからです。一方、政府貨幣であれば、借金は一円も増えませんので、崩壊しません。

②永久国債を日銀が引き受ける:この方法は、国債という、いわば政府の借金がどんどん増え続けます。バブル時代のように景気が良くなり、日本経済は復活するかもしれませんが、政府の借金が返せなくなって崩壊する心配はないのでしょうか?その心配は皆無です。永久国債とは、返さなくてよい国債だからです。もちろん、返さなくてもよい借金など、普通の銀行は引き受けるわけがありませんが、政府の銀行である日本銀行なら可能です。なぜなら民間銀行と異なり、日銀は通貨の供給をコントロールすることが使命であって、おカネを儲ける必要はないからです。日銀は民間企業ではないため、経営上は損をしてもまったく問題ありません。なにしろ、自分のところでおカネを発行できるのですから。

 このように、バブルではない仕組みによって、バブル時代と同じように世の中におカネを溢れさせることができれば、そしておカネを国民に十二分に行き渡らせることができれば、日本経済が大きく改善することは疑う余地もないでしょう。つまり、おカネを発行して、それを国民に配る、ヘリコプターマネーと呼ばれる政策です。最初に申し上げたように、年功序列、雇用の流動化、規制緩和、グローバル化、そういう話より、まず最優先に取り組むべきことがここにあります。

 ちなみに、アベノミクスによって推進されてきた日銀の量的緩和政策はおカネを直接に増やす政策ではありません。おカネを増やすための動機を刺激する間接的な方法です。そのため、実際、おカネはあまり増えていません。しかもこの方法は個人や企業の借金を増やす方法論であり、バブル経済におけるおカネの増え方と本質的に同じです。そのため、資産バブルが発生しやすく、その証拠に株価水準が実体経済に比べて高くなっています。ですから今日行われている量的緩和政策ではなく、ご説明した二つのどちらかの方法によって、個人や企業の借金を増やすことなく、直接的に世の中のおカネを増やしてやる必要があるのです。

 バブル崩壊直後にこれをやっていれば、失われた20年は無かったはずです。しかし実際には20年以上の年月が失われてしまい、その間に、日本の産業構造はバブル崩壊当時とは大きく違うものに変化してしまいました。20年を経て変化したのですから、この20年の歳月を取り戻し、正常な経済の姿を取り戻すには、やはり5年や10年といった期間が必要であり、その間に、様々な矛盾や課題が発生するでしょう。しかし、それは乗り越えるべき課題です。そうした課題を恐れて手をこまねいていれば、日本はさらに20年を失うことになるでしょう。

(補足)

 バブル時代の当時と今では状況が違う、今は少子高齢化だ、昔は若い世代が多かったから景気が良かったのだ、という人がいるかも知れません。その場合は、きちんと分析的に考えてほしいと思います。確かに今と昔は環境が異なります。しかし、バブル景気が崩壊した理由は、おカネの供給量が激減したためであり、これは事実です。このことから社会構造や高齢化に関わらず、おカネの供給量が経済活動において決定的に重要であることは明白です。この小論の要点はそこにあります。そのうえで、仮にバブル時代のように十分なおカネが供給されたとしても、バブル時代と同じ経済状況に戻るとは言えません。すでに失われた20年が原因で、日本の産業構造が変化し、少子高齢化も進展しているからです。ですから、改革や成長戦略がまったく必要ないという話ではありません。しかし、おカネの供給量、国民の購買力が経済活動において決定的に重要であることは、今も昔も、何も変わらないのです。


2021年10月24日日曜日

与野党の政策論争は、財政均衡の掌で踊るだけ

 与党も野党も「分配」を言い出したことで、分配をめぐって政策論争になっている。互いに「成長なくして分配なし」「分配なくして成長なし」と言い争っているが、そこに、お呼びじゃない財務省や御用学者が口を出してきて、ほとんど三つ巴のお笑い劇場である。しかし、彼らはすべて「財政均衡主義」という掌の上で踊っているに過ぎない。

 ところで、マスコミは盛んに「バラマキ合戦」などと批判はするものの、与野党のバラマキの違いがどこにあるのか、冷静に考えているとは思えない。分配の政策は手法によって幾つもの種類があり、その方法によって、日本経済にまったく異なる影響をもたらす。そうした論考を抜きにして、やれ分配やら成長やら論じるのは、ほとんどナンセンスに思われる。

1)野党の「分配」は再分配を意味している

 マスコミは、なんでもかんでも「分配」と一括りに扱っているが、野党の主張する分配とは、再分配のことである。野党は大企業や富裕層の課税を強化し、そこから得た税収を、低所得層などへ分配する政策を主張しているからだ。これは分配ではなく「増税による再分配」である。分配と再分配は大きく異なるが、マスコミは何も考えずに「分配」と表現しており、これは重大な間違い、または意図的世論操作であると言える。

 野党の主張は「分配なくして成長なし」ではなく、「増税による再分配なくして成長なし」なのである。確かに、富裕層や大企業が使わずにため込んでいるカネを増税によって回収し、消費意欲の高い低所得層に再分配すれば、消費が拡大することで、経済が成長する可能性はあるだろう。ただし、企業や富裕層への課税強化は、富裕層の消費や大企業の投資を減らしてしまう点には注意が必要だろう。

 一方で、防衛費を削減したり、公共インフラ保全のための財政出動を削減するなどの政策転換が行われないとも限らない。旧民主党時代の「コンクリートから人へ」の前例もある。なぜこうなるのかと言えば、野党が「財政均衡主義」だからである。国家予算が税収の範囲に限られると信じ切っているため、こっちを増やすためには、あっちを切るしかない(ゼロ・サムゲーム)、となるのである。

 そして、野党は財政均衡主義に固執しているため、やがて「消費税の増税」に踏み込むのではないかとの懸念が払しょくできない。コロナ対策のため期限付きの消費税減税を行うというが、その間の穴埋めの財源として国債を発行するという。国民におカネを撒くことは良いのだが、結局のところ「財政均衡(プライマリーバランス)」にこだわれば、やがて借金を返すための「大増税時代」がやってくることは目に見えている。消費税増税はしないと言いながら、掌を返した旧民主党・野田政権の前例がある。目の前の「再分配」だけを論じても、不十分なのである。

2)与党の「分配」は企業頼み

 与党・自民党の「分配」は、企業の賃上げ頼みの分配論である。政府が分配するわけではない。与党は、増税を原資とした再分配には否定的で、それは「金融所得課税の撤回」に表れている。税を取らないのだから政府が国民におカネを配ることはできない、だから、代わりに企業に賃金を上げさせようという話になる。そのために、賃上げに応じた企業の税を軽減したり、景気刺激のための財政出動を行うというのである。企業頼みの分配政策なのだから、企業の売り上げが増加する、つまり、経済が成長しなければ分配は不可能であり、その意味では「成長なくして分配なし」は、彼らの政策からすれば当たり前なだけである。「成長なくして分配なし」が正しいのではなく、彼らの方法論では「成長しなければ、分配できない」だけの話である。

 しかし、成長しなくても分配は可能である。それが再分配であり、野党の主張がそれである。野党の分配は「再分配」を意味しているし、与党の分配は「企業の賃上げ」を意味しているのだから、野党と与党の主張がかみ合うわけがない。

 与党の分配はすべて経済成長の成否にかかっている。成長しなければ分配できない方法論だからだ。安倍政権の時代にも、企業に賃上げの要請を行っており、「官製春闘」と揶揄されたが、結局はそれと同じことをやろうという話である。では、与党の政策で経済が成長できるのか?アベノミクスで10年近くやってきたが、どれほど経済が成長しただろうか?確かにアベノミクスによって経済は成長したが、ほとんど雀の涙のような話である。まったく「力強さに欠ける」。金融緩和頼みでは、カタツムリのような成長速度しか期待できないことが明らかになった。だから財政政策にもっと力を入れなければならないことは明らかである。

 しかし、与党・自民党もまた「財政均衡主義」である。国家予算が税収の範囲に限られていると信じ切っているため、財政出動を行うにも腰が引けているのである。乾ききった畑に多少の水を撒いても、すぐに蒸発してしまう。どうせ撒くのなら、じゃぶじゃぶになるほど撒かないと、作物は育たない。財政がどうのこうのと、言っている場合ではないのである。自民党が財政均衡主義を脱しない限り、彼らの政策には何の期待も持てないのである。それどころか、中途半端に財政出動しても効果が無く、国債の残高だけが増加するという「悪循環」に陥る恐れが極めて大きい(実際、すでにそうなっている)。その先に待ち受けるのは、「デフレ不況+増税地獄」である。

3)財務省を潰せば、与党も野党も丸く収まる

 財務省を潰せば与党も野党も丸く収まる。といっても、財務省を建物ごと爆破するという物騒な話ではなく、たとえ話である。つまり「財政均衡主義」を脱すれば、与党案も野党案も、それはそれで丸く収まるのである。

 野党の分配は「増税による再分配」であり、富裕層の消費や大企業の投資を抑制する恐れもあるのだが、これを再分配ではなく、「通貨発行(=国債の日銀引き受け)による分配」に改めることで、こうしたリスクを抑えることができる。また、防衛費やインフラ投資もいままで通りに維持、あるいは拡大が可能になる。当然ながら、野田政権のように「増税を決められる政治」「ブレない増税」とか言って、増税に猪突猛進する必要もなくなるのである。そして、低所得層をはじめとする消費意欲の高い人々に現金を給付することで消費が拡大すれば、企業の売り上げが増加し、企業利益を押し上げ、利益は再投資へと振り向けられることになる。経済は確実に成長へと向かうはずだ。その意味で「分配なくして成長なし」で良いのである。

 一方の与党・自民党の分配は「経済成長に伴う賃上げ」であり、ここでも「通貨発行(=国債の日銀引き受け)による大胆な財政出動」が極めて重要になる。中途半端で小出しの財政出動ではなく、本当に大胆な財政出動と金融緩和を同時に行うことで、企業の売り上げを増加し、企業利益を押し上げ、再投資や賃金の増加へ繋がることになる。例えば100兆円規模の大胆な財政出動により、成長と分配の好循環を止まらないほど加速してやることができる。十分に加速してやれば、この車輪が簡単に止まることはないだろう。

 つまり、野党案でも与党案でも、どちらも「財政均衡主義」から脱することで、政策として十分に魅力的になるのである。野党案は需要サイドからの景気刺激であり、与党案は供給サイドからの景気刺激となる。個人的には、消費者視点から言えば、国民におカネを撒く方を支持する。野党案も与党案も、財政均衡主義から脱しない限り、その先にあるのは増税地獄か、はたまたデフレ地獄か、あるいは両方である。

4)現代資本主義は、誰かが借金を負わなければ経済が麻痺してしまう

 財政均衡主義から脱するためには、政治家だけではなく、国民も金融の基本システムを正しく理解していなければならない。その仕組みとは「世の中のおカネはすべて借金から作られる」という事実である。これを理解していないと、容易に財政均衡主義の妄想に囚われ、デフレ経済不況の泥沼へ沈んでゆくことになる。

 経済活動のためにはおカネが必要であり、経済活動が活発になればなるほど、経済活動にはより多くのおカネが必要になる。一方、世の中のおカネはすべて借金から作られているのだから、経済活動が活発になればなるほど、世の中の借金は増えなければならない。借金が増えなければ、おカネも増えないのだから当然である。

 これは、逆に言えば、借金が増えなければ経済成長できなくなることを意味する。にわかには信じがたいかも知れないが、日銀の行っている金融緩和・金利政策とは、それに基づいた政策である。日銀は市中銀行の貸出金利を下げる政策を行う。それによって、企業が銀行から借金を増やすことで、世の中のおカネの量を増やし、経済を動かそうとする政策である。日銀は借金を増やす政策を行っている。すなわち、現代の資本主義経済は、すべて借金に依存しているのである。

 誰かが借金を負わなければ、経済は麻痺してしまう。おカネが無くなるからだ。では、誰が借金を負うべきなのか?景気が良い時は、主に企業や家計が借金を負うことで、経済を回している。景気が良ければ企業や家計が借金を負っても、返済は比較的容易である。だから企業も家計も借り入れやローンを組んで、借金を増やす。それによって世の中のおカネの量も増える。それが景気を支え、景気を拡大する。しかし、景気が悪くなると企業も個人も借金を減らそうとする。これは当然である。しかし、世の中の借金が減ると、世の中のおカネの量も減るため、ますます景気が悪くなるのである。とはいえ、景気が悪いにもかかわらず、企業や家計に無理矢理に借金を増やさせることはできない。だから、一旦、景気が悪くなると、どんどん景気が悪くなってしまう。

 誰かが借金を負わなければ、経済は動かない。おカネが足りなくなるからだ。では、誰が借金を負うべきなのか?もし、企業や家計が借金を負わないのであれば、政府が借金を負うしかない。企業も家計も借金を増やさず、しかも政府も借金をしないのであれば、経済は果てしなく縮小を続け、日本経済は荒廃するしかない。そして、財政均衡主義とは、政府の借金を否定する考えである。プライマリーバランスを黒字化するとは、「政府は借金をしません」という意味である。経済が不況の時にこれをやれば、日本経済が荒廃に向かって縮小を続けることは、火を見るよりも明らかだ。その根本的な原因は、現代の金融のシステムがそうなっているからに他ならない。借金が良い事か、悪い事か、という道徳や会社経営の話とは、まったく別次元の問題なのである。残念ながら、物事の善悪や会社経営を基準とした価値観では解決不可能である。

 だが、こんな基本的なシステムでさえ、財務官僚はまともに理解していないし、政治家もマスコミの論者も、あるいは、一部の経済学者も理解していない。おそらく日本国民の90%の人々も理解していないだろう。こんなことでは、まともな経済論争などできるわけがない。つまり、選挙の論戦など茶番劇に過ぎないということだ。

 金融システムをまともに理解していない政治家やマスコミが、やれ分配だ、やれ成長だと騒いだところで、ピンぼけの、ナンセンスな議論に過ぎない。そこに「お呼びじゃない財務省」がしゃしゃり出てきて財政破綻論をぶち上げる始末なのだから、日本の政治はドタバタお笑い劇場と化しているのである。金融に関する無知から生まれる財政均衡主義に固執する限り、日本の未来は絶望的だ。



2021年8月6日金曜日

二階建て金融システムのご提案

 2021.8.5

 現在の金融システムは、基本的に通貨供給を市中銀行の信用創造のみで行う方法です(日銀が市中におカネを供給しているわけではない)。これは、市中銀行から通貨を家計や企業へ貸し出すことによって通貨供給を行い、貸し出す通貨の量を日銀の金利政策によってコントロールします。それに対し、こうした金利政策による通貨供給に加えて、日銀・政府による通貨供給=ヘリマネを併用し、「金利政策(変動供給部分)+ヘリマネ(固定供給部分)」の二階建て金融システムとすることで、デフレを完全に脱却するとともに、金利を正常化し、金利政策の有効性を高める方法をご提案します。このヘリマネの部分は、国民配当(少額ベーシックインカム)として国民に分配されることになります。

 日本経済をデフレから脱却させるために、2012年の安倍政権の発足と同時に、日銀による金融政策としてリフレ政策が採用されました。しかし、日銀の大規模金融緩和によっても、世の中のおカネ(マネーストック)はあまり増加せず、日本は完全にデフレから脱却できず、目標インフレ率2%に達する気配もありません。マクロ指標の推移から見て、リフレ政策に効果が無いとは言えませんが、あるとしても効果は不十分であり、景気回復のペースも、まったく緩慢であると言わざるを得ません。

 従って、もっと安定的かつ確実に世の中におカネを供給する仕組みを構築する必要があります。それが「二階建て金融システム」です。これは、これまでと同様に、市中銀行の信用創造によって世の中におカネ(マネーストック)が供給する仕組みに加えて、固定的に一定率のおカネ(マネーストック)を市中銀行の信用創造をへずに、日銀(あるいは政府)が直接に世の中に供給するものです。前者は日銀の金利政策によって変動する「変動部分」であり、後者は一定率で市中に直接供給する「固定部分」です。つまり、

  • マネーストックの供給=変動通貨供給+固定通貨供給
  • マネーストックの供給率=金利政策による供給率+固定供給率

 ヘリマネによる通貨供給が通貨供給のベース部分になり、その上に金利政策による通貨供給が上乗せされる形になります。これまでは、ヘリマネを景気対策のための補助的な手段と考え、ヘリマネを変動的に利用しようと考えるケースが多かったのですが、そうではなく、ヘリマネを固定化して通貨供給のベースにするわけです。

 例えば、固定供給率を4.5%とすると、仮に金利政策によるマネーストックの供給率が2%であった場合、合計のマネーストックの供給率は6.5%となります。そして、仮にデフレ(均衡金利マイナス)であって、金利政策による通貨供給がプラスマイナス・ゼロであったとしても、固定供給率の通貨供給は確実に可能となります。二階建て金融システムには、次のようなメリットがあります。

①早期にデフレから脱却が可能になると同時に、再びデフレに逆戻りするリスクを減らすことができます。

②仮にバブルが崩壊した場合でも、通貨の固定供給がある為、信用収縮による実体経済への悪影響を抑えることが可能になります。

③インフレ傾向となるため、金利の正常化(プラス金利)が実現し、金利政策の有効性が高まる(デフレでは金利政策の有効性が低い)。

④通貨の固定供給は、民間部門への貸し出しではなく、財政支出として供給されることになるが、これをすべての国民に平等に分配することにより、国民の所得を底上げし、内需を刺激することができる。

⑤民間部門の負債を減らすことができる。一般に企業の財務の健全性を高める。

⑥通貨循環量が増大し、税収が増加する。

 マネーストックの固定供給を行う方法としては、政府の発行する金融資産(政府コインまたは永久国債)を日銀の資産として計上することで、日銀内の政府当座預金を発生する。固定供給率は日銀が決定し、毎年見直す。仮に国民へ毎月3万円の給付を行うとすれば、通貨供給はマネーストックの4.5%となる。


補足

A)固定通貨供給について

 政府が通貨を供給することについては、フィッシャーらによってシカゴプランで主張されており、固定通貨供給については、フリードマンによってk%ルールで主張されており、新しいものではない。ただし、中央銀行による金利政策を併用するタイプ(二階建て)の考え方は、無いかも知れません。

B)インフレについて

インフレの心配は極めて低いと考えられる。過去の日本の統計(下図)を見ても、インフレ率が通貨の伸び率を超えたことはない。仮に固定供給4.5%+変動供給2%=合計6.5%であれば、せいぜいインフレ率は2%程度ではないかと思われる。

 



C)インフレが止まらなくなるのではないか

 変動供給は、金利政策によってコントロールされるので、インフレが止まらなくなる心配はない。金利政策は、通貨供給を増やす効果は弱いが、引き締めには極めて強力である。むしろ日本のバブル崩壊のように、引き締め過ぎる方が心配。あるいは、近年の日銀による量的緩和政策によって、市中銀行の保有する日銀当座預金が膨大に積みあがっているため、これが過度の信用膨張を引き起こすと心配するかもしれない。しかし、現在は1%程度と、極めて低く抑えられている預金準備率を引き上げることで、過剰な信用膨張を防ぐことができる。

D)世の中がおかねで、ますます「じゃぶじゃぶ」になるのではないか

 まず、これまでも世の中のおカネの量(マネーストック)はあまり増えていない。「じゃぶじゃぶ」というのは事実を無視したフェイクニュースであって、実際のおカネの伸び率は、バブル崩壊前の半分にも達していない(上図を参照)。金融緩和によって「じゃぶじゃぶ」に増えたのは、市中銀行の保有する日銀当座預金(マネタリーベース)だけである。仮に通貨供給を固定4.5%増やしたところで、通貨供給はバブル崩壊前の水準以下でコントロールできると思われる。



2021年7月21日水曜日

縄文の栗林とベーシックインカムの共通性

  ベーシックインカムは縄文時代の、三内丸山遺跡にあったという広大な栗林と同じようなものだと思うことがあります。どういうことか。

 縄文時代、三内丸山遺跡では、人々が何世代にも渡って集落の近くに栗の木を植え、広大な栗の林を形成していたといいます。何世代にも渡って人々が積み上げてきた「資産」のようなものです。この資産は集落のすべての人の共有財産です。しかも、ほとんど労働を必要とせず、放置していても勝手に栗の実が大量に収穫できるわけです。もちろん、まったく労働が必要ないわけではありませんが、稲作のような手間は必要なかったのではないかと思います。これは考古学的に正確な話ではなく、あくまでも比喩のための話ですが。

 なぜ栗林は個人の所有物ではないのか?稲作のように、限られた場所で集中的に作業を繰り返さなければ収穫できないわけではないからです。稲作のような「人手によって作られる」ものは、作った人がその権利を有したいと考えるでしょう。しかし、栗の実は、ある意味、ほったらかしでも勝手に実るわけです。人間は拾って食べるだけ。しかも、人々が生活する上で十分な量が収穫されるのなら、喧嘩して奪い合ったり、「この栗の木はおれの木だ」と必死に独占権を主張する必要はありません。

 それに、そもそも栗の林は、何世代にも渡って受け継がれてきますから、例えば誰かが栗を植えたとしても、世代を超えるうちに誰が植えたかなど忘れられてしまうでしょう。誰が植えたか(所有権)など、どうでも良いのです。自然に実をつける、広大な栗林という「資産」が、すべての人の生活の基礎をささえてくれるのです。誰が栗林を所有するかではなく、栗林がすべての人々の生活を支えてくれる、それこそが最も重要な事です。

 では、栗の林があるから、人間は怠惰になって、何もしなくなるのか?そんな話はありません。生活のベースとなる栗の実が確保されたとしても、人々は共同で狩りをしてその獲物を互いに分配したり(分配経済)、あるいは自分一人で生活に役立つ土器や石器のような道具を作って、他の個人と交換し合ったり(交換経済)、自由に活動するわけです。ただし、栗の林はいつも豊かに実り、人々の生活を支えてくれるのです。

 しかし時代は流れ、すべての資産が誰かに所有される時代になると、そんな生活は夢のような話になってしまいました。確かに、生産効率から言えば、生産性の高い生産主体に資本を所有させたほうが、より少ない資本でより多くの成果物を得ることができますので、生産の総量としてはより多くなります。しかし、すべての人々を満足させるための分配の仕組みが確立されていないため、争いが絶えることはありません。そして、人工知能やロボットのような「完全自動生産機械」が急速に進化しつつある現代、曲がりなりにも分配のシステムとして機能してきた「労働市場」「賃金(労働の代価)」という考え方は、崩壊に向かいつつあります。

 こうしたなかで、再び「縄文の栗林」の考え方が重要視されるべきではないかと思われるのです。縄文への回帰です。それは決して悪いものではないはずです。人々の生活は、いつも栗林によって守られるのです。栗林は太陽や大地の恵みによって、人手を要することなく多くの実りをもたらし、すべての人々の生活を支えます。一方、人工知能やロボットも、人手を要することなく多くの財を生産することができますので、すべての人々の生活を支えることができるはずです。遠い将来の話ではありません。実際、すでに機械が私たちの生活の大部分を支えていると言っても過言ではありません。すでに、そういう時代に踏み込んでいるのです。

 では、人工知能やロボットは誰のものなのか?人工知能もロボットも、個人あるいは企業が、まったくのゼロから作り出したものではありません。すべての発明も技術も、過去の多くの先人たちの残してくれた、知的資産あるいは社会的な資産の蓄積を利用する形で成り立っています。それは、縄文の栗林のように、昔の人が植えた栗の木が代々引き継がれ、誰が植えたのか、もはやわからない栗の木が、土台となっているのと同じです。ですから、確かに人工知能もロボットも、それを直接に発明した人々の努力の成果ですが、それと同時に、先人たちを含め、私たち人類の共有資産の一部でもあるのです。

 そして、人工知能やロボットの進化によって、人間がその共有資産の形成のために費やす労働・努力の度合いはますます小さくなるでしょう。すなわち、もはや、誰の努力の成果であるかを主張することすら、バカバカしい状態になります。それは、ほとんど「大自然の恵み」と同じようになるからです。究極に進化した自動生産システムは、太陽の絶えることないエネルギーを利用し、人々の生活のための財を生産し、不要になった廃品を回収し、リサイクルして、再び太陽のエネルギーを利用して人々の生活を支える財を生産する。これは自然界における物質循環と何ら変わることはありません。

 もちろん、明日からそんな社会になるわけではありません。しかし、最終的にそうなるのであれば、可能な限りのスピードで、今から、それに向かって変化すべきだと考えても何ら不思議ではありません。明確な未来へのビジョンを持ち、一歩ずつ着実に、縄文の栗林の世界に向かって進む。

 すぐに始めましょう。月額1万円を、全国民に給付するところから。

2021年7月8日木曜日

ベーシックインカム導入に関する提案1

A)ベーシックインカム制度の具体的な想定

 導入方法は、月額1万円支給から始めて支給額を徐々に増加させ続ける。状況にもよるが、基本的には月額支給額を毎年1万円ずつ引き上げる。ただし、次の3つのフェーズを想定する。

フェーズ1(月額3万円まで)

 財源は通貨発行(政府紙幣または永久国債の日銀引き受け)。月額1万円の支給から始めて毎年支給額を増額し、3万円支給まで。このフェーズでは、増税や社会保障制度の変更は一切行わない。景気の回復が不十分な場合は支給をさらに増やしても良い。インフレには金利引き上げで対応する。月額3万円の通貨供給量はマネーストックの4.5%程度なので、金利政策で対応可能。金利を引き締めつつ、おカネを供給することで、資産バブルの発生を抑制する。

フェーズ2(月額7万円まで)

 フェーズ1の状況を分析し、景気が十分に回復してから、所得税や法人税の増税を財源とする支給を開始する。支給額を徐々に7万円まで引き上げる。キャピタルゲインや配当などに対する課税は総合課税に組み込む。社会保障の統廃合は一切行わないが、二重給付の抑制の観点から、支給額の削減などは行う。すでに3万円支給までは通貨発行により財源を確保しているので、さらに4万円支給分だけ財源を確保すればよい。財源として、景気回復による税収の自然増も期待できる。

フェーズ3(支給額を増やし続ける)

 月額7万円では満足な生活を送ることは難しいので、支給額は増やし続ける。新たな財源として金融資産課税(個人・法人)を創設する。明確な支給目標金額はないが、イメージとしては、人工知能やロボットなどの自動生産システムが普及することにより、将来的に、ほぼすべての国民が仕事を失う(仕事をしなくてもよい)ことを想定すれば、支給額は最低限の生活を保障する額ではなく、社会の平均的な所得水準としなければならない。例えば、実質値(インフレを除く)で言えば、毎月15万円以上。

(当方式のメリット)

・フェーズ1は、すぐにでも実行可能、かつ内需の底上げによる景気回復が期待できる。

・支給額を徐々に増額することで、社会への影響を最小限に抑えることが可能。

・インフレへの対応が十分に可能(支給額を徐々に増額し、増税も金利政策も併用するから)

(特徴)

①社会保障との兼ね合い

 毎月1万円の給付からスタートして、段階的に支給額を増加する。そのため、当初は社会保障制度をそのまま残す「追加型」で行う。ベーシックインカムの支給額が10万円を超えるなど、社会保障がなくても生活に支障がないと判断される段階に至ってから「中間型」に移行する、つまり社会保障制度の見直しを行う。

②支給額

 フェーズ1は月額1万円からスタートして3万円支給。フェーズ2はさらに毎年増額して月額7万円支給まで増額。フェーズ3は、さらに支給額を徐々に増額し続ける。実質月額15万円以上を想定。

③財源としての通貨発行

 フェーズ1では、通貨発行のみを財源とする。具体的には政府紙幣の日銀への預金または永久国債の日銀引き受け。通貨供給量はマネーストックの4.5%程度として、インフレには金利政策で対応する。金利引き締めの際には中小企業への資金繰り支援も併用する。

④財源としての税制

 高度に自動生産技術が進化した未来社会においては、家計(労働者)に支払われる賃金がほとんどゼロになってしまうため、生産者である企業サイドにおカネが停滞してしまうことになる。従って、最終的には企業から政府がおカネを回収して、家計に循環させるシステムの構築が不可欠であると思われる。また、株主には莫大な配当が流れる可能性が高い。こうした状況に適した税制は、企業や個人への金融資産課税ではないかと考える。

 しかし、現時点ですぐに新たな税制を導入することは政治的に困難であることから、フェーズ1では増税を行わず、フェーズ2では、所得税、法人税などを複合的に利用して財源を確保する。フェーズ3において金融資産課税を導入する。

 いずれにしろ、「まずは、ベーシックインカムによっておカネを世の中に供給する」ことが先決で、これによって景気(通貨循環や信用創造)が活性化すれば、税収の自然増が期待できるうえ、企業や家計に増税を受け入れるだけのゆとりが生まれると考える。

⑤導入方式

フェーズ1:月額3万円の支給(食費クーポンでも構わない)

フェーズ2:月額7万円の支給(この段階では、食費クーポンは現金に変更)

フェーズ3:支給額を増額し続ける

 もちろん、高度なベーシックインカムは、生産者と消費者の通貨の循環を整えるだけでは実現できないので、科学技術開発への投資促進、政府による直接投資を行い、資源のリサイクル、生産技術の向上によって供給力が十分に確保できるような政策が欠かせないと思われる。

⑥ベーシックサービスの併用

 おカネを配っても、現物支給しても、供給力が必要となる意味では違いはないと思うが、個人の自由を尊重する意味から言えばおカネの支給が望ましいし、個人におカネを支給すれば、政府が支給するサービスを選択することにより市場をゆがめる心配もない。とはいえ、国民の中には、おカネを配ることに激しい反感を抱く人が居ることも事実である。こうした感情は、これまでの社会通念から生じているため、これを理性的に納得させることはかなり困難である。その意味では、例えば、フェーズ1における支給として、毎月3万円を食料品に使用を限定したクーポンとして配布する方法もあると思われる。ただし、未来社会における標準的なシステムを考えた場合、人々の意識や常識の変化を促しつつ、フェーズ2では、現金による給付に一本化する必要があると思われる。


2021年3月8日月曜日

AIが人類を凌駕すれば平等社会になる

 なぜ人間は平等ではないのか?恐ろしく簡単に言えば、人間の能力に差があるからであろう。能力の高い方がより多くの富(あるいは所得)を得る社会になっている。ある意味、それは避けられなかった。これまでの社会は共同体社会ではなく、市場原理に基づく競争社会だったわけだし、無意識的にしろ、結果として、その格差こそが技術革新と生産性の向上あるいは資源の効率的な利用につながり、社会全体の平均的な豊かさを押し上げてきた側面がある。

 しかし、人工知能が人間の能力を圧倒的に凌駕する時代が訪れたとすればどうなるだろうか?人間がまるで犬や猿のような存在になってしまえば、人間の能力の差など、まるで問題にならない。犬と猿の能力に違いはあるが、圧倒的な人工知能と比較すれば、「どっちも馬鹿」であることに変わりない。そして人間に代わって富の生産の大部分を人工知能が担うことになれば、能力差によって人間の処遇に差をつける意味がなくなるのだ。すなわち、人工知能が人間の能力を圧倒的に凌駕する時代になれば、ようやく人間は「富の分配」において平等になることができる。

 もちろん、それは今すぐではない。しかし時間の問題だろう。10年先か、30年先かという程度の差だと思う。つまり、その認識を踏まえて、現代社会を見直し、富の分配の意味を問い直すことも必要だと思う。いずれその時が来るのだから。

 では、そうなったら、まったく競争のない、すべてが平等な社会になるかと言えば、そうではない。人工知能が作り出す消費財(物質やサービス)の分配が平等になるだけであって、それ以外の分野においては、相変わらず人々は競争して他人より優れた存在になろうとするだろう。他の人から尊敬されたり、より多くの人々から賞賛を受けるために切磋琢磨を続けることになる。あるいは、人々とは無関係に、黙々と自分の興味の赴くところ、探求を続けることになる。

2021年2月21日日曜日

国債は返さなくても銀行は困らない

 銀行の借金を返さなくても、基本的には銀行は困らない仕組みになっています。元本を返さなくても、借り換えて利息をちゃんと払えば銀行は困りません。銀行は保有しているカネを貸しているのではなく、新たにおカネを作り出して貸しているからです。

 銀行ではなく、普通の個人や企業がおカネを貸す場合は、貸したおカネを返してもらわないと困ります。なぜでしょうか?例えばあなたが銀行から金利5%でおカネを借りているとします。別の誰かが金利10%でおカネを借りたいと言い出したらどうするか?あなたに貸しているおカネを返済してもらって、金利10%でおカネを貸しなおしたいと思うでしょう。

 ところが、銀行は自ら保有しているおカネを貸しているわけではありません。貸し出すときに新たにおカネを発行して貸します。そのため、別の誰かが金利10%でおカネを借りたいと言い出したら、新たにおカネをポンと発行して、貸し出すことができます。あなたが借りているおカネを返済してもらう必要はないのです。

 もちろん、厳密に言えば、日銀の政策金利、銀行の日銀当座預金残高によって、状況は異なります。今日の銀行制度は「準備預金制度」と呼ばれる制度によって、銀行がおかねを作り出す量に制限を加えていますので、この制限がきつい場合や、銀行の保有する日銀当座預金残高の少ない場合は、貸し出している元本を早く回収しなければ、新たにおカネを貸すことが難しくなります。しかし、現在は量的緩和政策によって、銀行の日銀当座預金にはおカネがうなるほどありますし、世の中に借り手が少ない状況なので、銀行としては、金利さえ払ってくれるなら、借金の返済を急ぐ理由はありません。銀行が欲しいのは「利息」なのですから。

 つまり、一般的な貸し借りの場合は、借金を返済しないと、貸し手は貸すおカネが不足して困りますが、銀行の場合は、おカネを作って貸すので、あまり困りません。貸すおカネが不足する心配が、ほとんどないのです。利息さえ銀行の要求通りに支払ってくれるなら、喜んで借り換えに応じてくれるでしょう。

 もちろん、あなたが破産しそうな場合は、血相を変えて取り立てに来ますがw。なぜなら、元本の回収がまったく不可能になると、銀行の帳簿では穴が開いてしまう(不良債権化)からです。一方、国債は政府が発行しているため、破産すること、つまり支払い不能になることは100%ありません(政府には通貨発行権があるから)。そのため、銀行は安心して国債を買い求めます。

 ですから、国債の場合も金利を払えば、銀行はいくらでも借り換えに応じるということです。ただし、景気が良くなると銀行は金利を釣り上げてきますので、国債の金利が上昇し、これが財政を圧迫する恐れはあります。その場合は、市中の銀行ではなく、政府(国家)の銀行である「日本銀行」に借りれば良いだけです。日銀は政府の銀行ですから、仮に日銀から、かなりの高利で国債を借り換えたとしても、その金利は日銀の利益として政府の国庫に戻ってきますので、実質的な財政の負担増加はありません。

 国債は返さなくても良いのです。踏み倒すはまずいですが、借り換えれば何の問題もありません。さらに、日銀から借りれば、利息の負担すらありません。だから、国債の発行によって、将来世代の負担が増えることは、まったくあり得ないのです。


2021年2月14日日曜日

そもそも現代社会は借金で成り立っている

 先日も、財務大臣が「将来世代の借金を増やすのか」と財政出動に否定的な発言をしていたが、こんなもの、ちゃんちゃらおかしいの一言である。なぜなら、現代社会は借金で成り立っているからである。

 現代社会が借金で成り立っていることは、以前から一部の識者の間では常識だったが、最近はMMT(現代貨幣理論)のおかげで、その事実が広く国民に浸透しつつある。別に陰謀論でもなんでもない、金融システムが、そういう制度設計になっているのである。事実から目を逸らさず、真剣に向き合えば、すべての国民が「現代社会は借金で成り立っている」ことが理解できる。

 「現代社会は借金で成り立っている」とはどういう事か?世の中のカネは(ほぼ)すべてが銀行からの借金によって作られているのである。銀行が誰かにおカネを貸し出す際に、新たに預金通貨を発行し、それを貸し出すことで世の中のおカネが増えるのである。逆に言えば、誰かが銀行から借金を負い続けなければ、世の中のおカネが(ほぼ)すべて消えてなくなり、経済が崩壊するのである。

 財務大臣の上げ足を取るなら、将来世代の借金を増やすのはいけないどころか「銀行から借金をしないと、将来世代の経済が崩壊する」のである。耳を疑うかも知れないが、現代の金融システムをしっかり勉強すれば、あたりまえの話である。無知とは恐ろしいものであり、というか、無知であるがゆえに、「財政再建しなければならない」などと考え、自分の足元をぶち壊して平気でいられるのである。

 もちろん、ここには「誰が借金すべきか」という選択肢が存在する。マクロにおける経済主体は「政府」「家計」「企業」「海外」があり、必ずしも政府が借金しなければならないわけではない。このうちのどれか(複数選択可能)が借金を負えば経済は成り立つのである。

 バブル崩壊前の時代には、「企業」が銀行から巨額の借金を負っていた。そのため世の中にはおカネが溢れ、非常に景気が良かった。ところが、バブル崩壊後は、多くの企業がバブル期に借りた借金の返済に苦しんだため、借金をしたがらなくなった。

 そうなると景気は一向に回復せず、やむを得ず、政府が銀行から借金をして(国債を市中消化して)、財政出動を行った。ところが、国債の発行残高がどんどん増えるものだから、こんどは財務省がすっかりビビッてしまい、借金はしたくない、財政再建すると言い出した。

 「企業」も「政府」も借金をしたがらないなら、家計が借金するしかない。しかし家計が借金を増やすとなると、それこそ、直接的な意味で「将来世代の借金」が増えることになる。家計が借金漬け、ローン地獄になることを意味する。

 つまり、消去法によっても、政府が銀行から借金を増やさなければならないのである。そして、政府が借金を増やすことこそ、最も合理的である。なぜなら、企業や家計はおカネを発行することができないために、収入以上の借金を抱えると破綻してしまうが、国家(=政府=日本銀行)は通貨を発行できるため、破綻することはないからである。

企業も家計も破綻リスクがあるために借金を増やせないが、破綻リスクのない政府は借金を増やすことができる。

 現代社会は借金によって成り立っている。世の中から借金を無くすれば、経済が崩壊する。だから、企業も家計も借金を増やせない状況にあるならば、政府が借金を増やすのは、当然なのである。そんなに政府の借金が嫌なら、中央銀行制度に代わって、政府通貨制度(ソブリンマネー制)を導入しなければならない。政府通貨制度にすれば、誰の借金も増やすことなく、世の中のおカネを増やすことができるからである。


2021年2月6日土曜日

自己責任論は〇〇の一つ覚え

  性懲りもなく登場してくる、いわゆる「自己責任論者」であるが、彼らの主張は「それは自己責任だ」の一点張りで、多面的な分析も考察もない。ただ単に「自分で解決しろ」「社会のせいにするな」「お前の能力が低いだけだ」「努力が足りない」というだけで、考え方にまったく深みが無く、まさに〇〇の一つ覚えのフレーズを繰り返すだけである。

 なぜ彼らが短絡的であるのか?その理由は簡単である。彼らの発言の動機の多くは、社会をより良くするためではなく、自分の欲求不満状態を解消するために、救いを求める弱者を非難し、弱者を困らせることで快感を得ることにあるからだ。いじめることが目的なのだ。だから、深い考えなどない。

 そもそも、なぜ「自己責任だ」というワンフレーズの繰り返しが通用するのか?それは自己責任という考えが正しいからではなく、現在の社会が自己責任社会であるからだ。つまり、競争原理の支配する資本主義・市場経済であるからだ。もし、社会経済システムが共生社会に変われば、「自己責任」というフレーズは通用しないどころか、とんでも論になるのである。自己責任論者は「社会のせいにするな」というが、まさに、社会がそうだからこそ、自己責任が通用するにすぎないのだ。

そして、自己責任社会とは無政府状態であり、彼らは無政府主義者でもある。

 なぜなら、自己責任においては、すべては自分の責任であり、権利が法によって守られる必要が無いからだ。あらゆる権利概念、例えば「所有権」も存在しない。所有権は所有物を法によって守られるが、自己責任社会では、所有物を守るのは自分の責任であって、強盗や詐欺によって所有物を奪われたとしても、それは自己責任である。武力をもって守れない自分が悪いのである。

 もし、自己責任社会が理想社会であると考えているなら、その理由を示すべきだが、明確な理由は見たことが無い。もし自己責任社会が理想であるなら、多様性とか、共生社会に対しても、強く否定すべきであろう。自己責任なのだから、他人を助ける必要もない。

 多少なりとも理性的であれば理解できることだが、人工知能やロボットが高度に進化すると、やがて大量の労働者が失業することになる。労働市場では労働の価値が非常に低くなるので、賃金も極めて安くなる。その一方で、ごく一部の労働者や資本家が富を独占するようになる。これを「自己責任だ」と言って、自助努力にまかせていても、まったく解決しない。量子コンピュータの人工知能や、コストが人間の10分の一で24時間で働くロボットに勝てる奴がいるだろうか?まだ完全にそうなってはいないが、今日の社会は格差が拡大し、賃金も伸びない。すでに、そうした状況になりつつあるのだ。

 いわゆる自己責任論者は、もう少し頭を使った方が良い。


2021年2月2日火曜日

財政再建は、もはや100%不可能だ

 新型コロナ感染対策のために、日本の財政赤字はさらに拡大する事態となっているなか、財務省とその御用マスコミの多くが、さかんに「財政危機」をあおり、コロナ対策への財政出動を抑えようとやっきになっているように見受けられる。経済優先のGOTOキャンペーンあるいは東京オリンピックの推進に固執し、飲食店等への休業補償の拡大に後ろ向きであったり、給付金の支給に否定的であることからも明白だ。財務大臣からも「後世の借金をさらに増やすのか」発言も飛び出している。だが、断言しておこう。

「財政再建は、もはや100%不可能である」

 日本の危機はコロナ感染だけに終わるものではない。近い将来、確実に「関東大震災」「南海トラフ地震」が発生する。その被害は甚大となり、コロナとは比較にならないほど大規模な財政出動が求められることになる。財政再建はおろか、大震災が発生すれば、国債発行残高が2倍に拡大しても不思議ではない。さらに、場合によっては、増長する中国共産党による尖閣諸島への軍事侵略もあり得る状況だ。国家の危機に対して、今後ますます財政出動が必要となる、つまり、もはや財政再建は絶対に不可能なのである。それが「現実」だ。現実に目を背けてはならない。

 財務省は、あたかも「財政を再建しなければ国が滅びる」がごとくに吹聴しているが、まったくそんなことはない。むしろ、大災害の際に財政出動をケチって経済やインフラの維持を疎かにすれば、それこそが、日本国を滅亡へ導くことになる。極端に言えば、国債は「たかが借金」であり、最悪の場合、仮に踏み倒したところで、経済は一時的に混乱するが、やがて元に戻る。カネの問題は「帳尻の問題にすぎない」ので、リセットすれば再スタートが可能だ(ご破算に願いましてはw)。しかし、経済やインフラが破壊されると、再起不能になる恐れが十分にある。供給力が永久に棄損すれば、「財の生産そのものの問題」なので、いくら帳尻を合わせたところで、取り返しが付かない。

 財政再建の害悪を人間に例えることができる。すなわち、たとえ破産したとしても、破産で死ぬ人はいない。しかし、カネを惜しんで我慢したり、無理をして体を壊してしまえば、死んでしまうのである。

 日本には、まだまだ多くの危機が差し迫っている。にもかかわらず、この期に及んで、まだ財政再建をもくろむというのは、非現実的で、無責任な妄想に過ぎない。頭がお花畑なのである。財政再建は、ただちにやめなければならない。

 そして、「財政再建は100%不可能」なのであるから、財政再建をしない=国債の発行残高が増え続けるという前提で、物事を考えなければならないのである。つまり、国債の発行残高が増え続ける中で、経済が支障なく機能するような政策を行うことが重要である。現実に即した柔軟な発想が不可欠なのだ。これが令和の時代の「新常態(ニューノーマル)」である。アフターコロナの時代は、国債の発行残高が増え続けることを、常識としなければならない。そうしなければ、今後に日本を襲うであろう危機に対して、日本は対応できないのである。