2020年9月12日土曜日

消費税のパラドックス

 財務官僚は愚かです。「消費税は社会保障のための恒久財源になる」と言ってます。彼らはおそらく短絡的に、こう考えているのでしょう・・・「財源を所得税にすると、高齢化により労働人口が減少し、すなわち納税者数が減少し、税収が減る。消費税なら労働者だけでなく高齢者や未成年からも徴税できるので、労働人口が減少しても納税者数が減ることがなく、税収を確保できる」と。まさに愚かである。

 直接税(所得税)であろうと間接税(消費税)であろうと、労働人口が減少すれば税収は減少する。なぜなら、税の出どころの大部分は、労働者の賃金だからである。

 そもそも家計に徴税して、それで社会保障(年金制度)を運用システムとは、どういうものか?シンプルなモデルで考えてみましょう。まず、年金生活者が居ない場合の経済を考えてみます。企業で労働者が働いて財を100生産したとします。仮に労働分配率が100%だとすると、労働者には100の賃金が支払われます。これにより、労働者は企業において生産した財100をすべて購入・消費することができます。おカネ100は企業に戻ります。

 さて、年金生活者がいる場合の経済を考えてみます。税の種類は結果的にどれでも同じです。何らかの税によって、労働者の賃金100のうち、30を政府が徴税します。その30を年金生活者に支給します。企業が生産する財は100でしたね。そこで、労働者は徴税後の所得である70のおカネを使って70の財を購入・消費し、年金生活者は年金である30のおカネを使って30の財を購入・消費します。これで生産された財100はすべて売れて、おカネ100は企業に戻ります。

 これがシステムの本質的な部分になります。そうでなければ、システムが成り立ちません。おカネが「企業→消費者→企業」のように循環しなければ経済が成り立たないからです。税制の種類にかかわらず「社会保障は労働者が負担する」という本質は同じであり、その出どころは労働者の賃金なのです。では、税制によって何が違うのか、と言えば、所得税の場合は賃金から徴税され、消費税の場合は買い物をする際に徴税されます。どの段階で課税されるかの違いだけであり、結果として、年金生活者に年金30を支払うためには、どのような税制においても、労働者から30の税金を徴収することになります。

 従って、直接税であろうと間接税であろうと、労働人口が減少すれば税収は減少することが直ちに理解できると思います。もし、そうでなければ、奇妙な現象が起きてしまいます。

 未来の社会においては、高齢化のみならず、人工知能や完全自動生産工場の普及によって、労働人口はますます減り続け、最終的にはすべての労働を機械が担うようになると、労働者数はゼロになってしまいます。この場合でも、財務省の理論によれば、消費税はすべての人が払うわけですから、税収が確保できる、と財務官僚は言うでしょう。さて、では、いったい誰が誰の社会保障を支えていることになるのでしょうか?これが破綻していることは、先ほどのようなおカネの循環を考えれば、直ぐにわかります。「企業→消費者→企業」というおカネの循環が存在していないのです。

これは「消費税のパラドックス」とでも呼ぶべき現象です。

 もちろん、これは労働人口の減少が究極まで進んだ状態ですから、実際にはそんなことは生じません。しかし、時代は労働人口が減少する方向に進むのは避けられないため、時間とともにシステムに歪みが生じてくることは確実でしょう。具体的には、消費税をいくら上げても税収が減少するようになります。最終的に労働人口がゼロに近づくにつれ、消費税率は無限大になり、税収は限りなくゼロに近づき、まあ、それ以前のどこかの時点で社会保障は破綻するでしょう。これが財務省の言う「恒久財源」の正体です。

消費税を財源とする社会保障制度は、将来において必ず破綻する。

 では、なぜ消費税に固執するのか。消費税は強制的に物価を引き上げ、購買力を低下させる機能があります。ですから、年金生活者にも容赦なく課税することで、彼らの購買力を引き下げ、実質的に支給額を抑制するのと同等効果があると考えられます。つまり、年金は支給するが、そのうちの何割かを税によって吸い上げてしまうわけですから、消費税が増税されればされるほど、実質的な年金支給額は減少すると言えます。悪質な財務官僚の考えそうなことですね。


2020年8月31日月曜日

コロナ経済危機の真相とは?第12回

 現代における共同体としての企業

 少々余談になりますが、共同体という考えも捨てたものじゃない、という話をしてみます。共同体の経済、分配型経済などと聞くと、現実離れした架空の話に聞こえるかもしれません。今日の経済は市場経済、交換型経済であり、分配の経済などあり得ないと。しかし、現代社会でも分配型の経済は当たり前のように存在しています。意識したことがないため、気付かないだけです。それは「会社(企業)」です。

 会社は共同体に近いシステムです。会社に所属する社員は、製造部門・営業部門・管理部門など、それぞれに役割を分担し、売り上げの獲得に向けて共同で作業します。そして会社として獲得した利益から、各社員に給料が支払われる(分配される)形態をとります。社員に支払われる給料は、建前上は分配ではなく、契約に基づく支払いではありますが、実質的には利益の分配です。だから労働分配率などと言ったりしますね。とりわけ日本人は共同体意識を強く感じる民族のようで、会社に帰属意識を感じますし、会社は株主のものというより、「自分の会社」という意識が強いと言われます。

 会社は共同体としての性質があります。例えば、全国に5つの営業部門があったとして、その1つの営業部門が何らかのトラブルに巻き込まれて売り上げがゼロになってしまったとします。それでも、その営業部門の社員の給料がゼロになってしまうことはありません。逆に、ある営業部門がずば抜けて高い売り上げをあげたからといって、その営業部門だけ極端に給料が増えることもありません。これが、もし交換型の経済であったなら「敗者は淘汰」「勝者総取り」になるはずです。もちろん、会社は雇用形態によって性質が変わりますので、「敗者は淘汰」「勝者総取り」という会社もあるでしょうが、そういう極端な会社は日本では少ないのではないでしょうか。もちろん日本も徐々に欧米型の経済社会になりつつあるため、人間を一つの労働資源として、機械の構成パーツのように、必要に応じて付けたり、不要になったら即座に外したりできるような会社を目指しているのかも知れませんが。

 では、共同体である企業の内部は市場原理が働かないため、トライ&エラーが行われなくなって技術の進歩が停滞してしまうのでしょうか?あるいは社員の意欲が低下するのでしょうか?そうではありません。人事考課制度を用いることで、社員の成果や能力に応じて昇給や昇進を行うことで対処しています。こうしたマネジメントが今日はかなり発達してきましたから、共同体であっても常に新しい物事にチャレンジし続ける社風があり、高いモチベーションを維持しています。

 また、近年はグローバル化とともに企業の吸収・合併が盛んにおこなわれるようになり、巨大企業が続々と増えてきています。こうした巨大組織は、昔の時代であれば、それこそ一つの国と言えるほどの規模だと思います。そして合併して巨大化した企業の内部システムは共同体に近いものになっており、そこには分配型の経済の性質があるわけです。それほど巨大であっても問題なく機能しているのであれば、分配型の経済も機能しうるということではないでしょうか。そして、組織というのはどこまで大きくなりえるのでしょうか。仮にすべての民営企業が合併してしまったら、それは政府による国営企業と何が違うのでしょうか?実際には合併して企業数が減りすぎると、競争が生じなくなって独占の弊害が生じてしまいますので、そこまで極端なことは起きませんが。

 何が言いたいのか、と言えば、交換型経済のシステムと分配型経済のシステムは、そもそも混在しているのではないかと感じるのであり、もしそうなら、交換型経済のシステムと分配型経済のシステムは、もっと積極的に機能的に混合できるのではないかと思うのです。分配型のシステムも交換型のシステムも、必要があって自然発生的に生まれたシステムであって、どちらか一方を切り捨ててしまうべき性質のものではないはずです。だからこそ現代社会においても、その両者が混在していると考えられます。

 人類の歴史において、共同体の経済は最初に生まれたと考えられ、その形態が数十万年にわたって続いたとすれば、それは人間の本能のレベルを構成する遺伝的要素として私たちに刻み込まれているはずです。すなわち、共同体として生存するための本能です。例えば他を思いやる気持ち、集団への帰属意識、共同作業の喜び、皆から認められたいという欲求、命に代えても共同体を守ろうとする闘争心など、そうした精神構造は共同体とともに存在したはずです。そして、その精神構造は、今日になっても人々の意識を本能的に強く支配します。

 その後、人口の増加や集団の巨大化、生産性の向上に伴って、交換型の経済のウエイトが高まるにつれて、それが人間の社会にも大きな影響を及ぼし、昔ながらの共同体という社会は崩壊してゆくわけです。社会は赤の他人の集合体によって構成され、交換による利害関係だけで時に集まり、時に解散します。交換経済における人々の関係性は「交換」であり、「協働」ではありません。そして交換に値するモノを持つものだけが生存のために市場で交換ができるのであって、交換できるものを持たないものは、そもそも市場において存在価値を持たない。生存価値がない。そういう冷淡な社会になりました。しかし、そうした構造こそが、敗者を淘汰し、勝者による独占を通じて高い生産性と合理的な資源配分を実現するのです。それでもなお、人間の本能はたかだか数千年で変わるはずもなく、共同体の本能と生産性重視の市場経済の間で葛藤が生まれ、人々の精神を苛み、ストレスや過労、自殺など多くの不幸を生み出していると思うのです。

 市場経済システムは淘汰や排除を当然とするシステムであり、それなしには成り立たない。同時に極めて非人間的で多くの人を不幸に落とすことは避けられない。ゆえに、市場経済システムを全体として包み込むことのできる共同体の経済、分配の経済が同時に必要となると思います。

 それをセイフティーネットと表現することもできますが、セイフティーネットという言い方は、個人的には、「市場経済の落ちこぼれ者を救う、お情け政策」のように聞こえるので、あまり好きではありませんね。最終的に未来の社会では、生活のための生産活動はすべて自動化されて、人々は自動生産された消費財の分配によって生活するようになるのですから、その言い方は意味を失います。つまり、ほとんどすべての人が、今日的な意味では「失業」するのですから。

 社会とは、全体として人々の共同体であるべきであって、共同体から誰かを淘汰・排除するべきではありません。余程の貧しい社会でない限り、すべての人々がその共同体で普通に生きて行けることが社会の条件でしょう。しかし現代の社会は、完全雇用の状態を維持しなければ、生存できない人が必ず生じる仕組みになっています。これでは将来的に労働の大部分が自動化された時代には、社会の崩壊が免れません。人工知能や完全自動生産技術が急速に進化し続ける今、時代はすでに新しい仕組みを必要としているのです。

まあ、コロナ災害の問題から、ここまで考える人は誰もいないでしょうが(笑)


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2020年8月30日日曜日

コロナ経済危機の真相とは?第11回

 交換型経済と分配型経済は一長一短

 と、ここまで読まれますと、分配型の経済は人間的で理想的なシステムである一方、交換型の経済は他人の不幸など無関係の、冷酷な経済システムという印象を持たれると思います。実際にそうなのですが、しかし、その見方は一面にすぎません。それぞれの経済システムには、それぞれの長所と短所があります。これまで述べたことは「交換型経済の短所」と「分配型経済の長所」でした。では、「交換型経済の長所」と「分配型経済の短所」を考えてみましょう。

交換型経済の利点

 交換型経済すなわち市場経済の長所には、高い生産効率や早い技術の進歩があります。その原動力になるのが、いわゆる「市場原理」です。なぜ市場経済では高い生産効率を実現できるのでしょうか。それは、試行錯誤(トライ&エラー)を繰り返すことによって、より効率的な生産主体が、独占的に生産を担うようになるからです。

 例えば農産物を生産する場合を考えてみましょう。最初は数多くの農家が、それぞれに農産物を生産しています。それぞれの農家はそれぞれにやり方が異なるので、生産効率の悪い農家も生産効率の高い農家もあります。農家全体で見ると、平均値としての生産効率はそれほど高くありません。市場経済の場合、生産効率の高い農家があるとすれば、この農家は、他の農家よりも多くの農産物を生産できますので、市場において、より安く農産物を売ることができます。同じ品質であれば、市場では安い商品の方が良く売れます。すると、生産性の高い農家の農産物の売り上げが増加し、生産性の低い農家は売り上げが減少して、生産性の低い農家は廃業するでしょう。すると廃業した農地を生産性の高い農家が取得し、生産性の高い方法で生産をするようになります。このようにして市場経済では、生産性の低い主体が淘汰され、生産性の高い生産主体が生き残り、独占的に生産を行うことによって、農家全体として高い生産性を実現します。

 生産効率だけではありません。よりニーズにマッチした製品もまた、市場原理によって登場してきます。例えばスマホの市場には、初めは多くの企業が参入するでしょう。しかし市場では、より消費者のニーズにマッチした商品が売り上げを伸ばしますので、消費者のニーズを捉え切れなかった企業は倒産します。ただし、最初から消費者ニーズを的確に把握できることはありません。そこがトライ&エラーであって、新規に市場に参入する企業数が多ければ多いほど、ヒット商品を生み出す可能性は高くなりますし、トライ&エラーが少なければ、優れた商品はなかなか登場してこないでしょう。そして、より商品開発力の高い生産主体が独占的に生産を担うことで、より多くのすぐれた製品を生産することができます。

 こうした市場原理は、利用できる資源の量が少ない場合はとりわけ有効です。資源の量が少なければ、それだけ高い利用効率が求められるからです。効率の悪い生産主体、ニーズの低い商品に資源を配分するのではなく、より生産効率の高い生産主体や優れた商品を生産できる主体に限られた資源を分配する方が、より多くの成果を得ることができます。

 これは「敗者を容赦なく切り捨てる」「市場弱者は淘汰される」という、非常に冷酷な行為があって初めて可能になることであって、つまり、他人が生きようが死のうが知ったことではない、赤の他人が集まった自己責任社会だからこそ可能だ、とも言えるわけです。ところが、これが人々の共同体の社会となると、そんなことはできません。

配型経済の欠点

 一般に共産主義あるいは社会主義の社会では、生産主体は政府、つまり「国営」になります。そうなると、市場経済のように複数の企業が競争を行うことはありません。そのため、トライ&エラーの機会が非常に少なくなります。そもそも、生産技術にしても商品開発にしても、何が正解であるかは、誰にもわかりません。多数のチャレンジの中から、結果として優れたモノが生き残ることが進歩を促進するので、チャレンジの数が少なければ、技術の進歩はなかなか進まないわけです。分配型の経済は共同体なので、生産性の低い生産主体、顧客ニーズの低い生産主体であっても、生産現場からご退場いただくのが難しい。また、過去の共産主義では、そもそもご退場いただくためのシステムが欠落していたのではないかと考えられます。「競争=悪」と考えたり、「成果とは無関係な悪しき平等主義」によって、効率性が損なわれたのでしょう。

 また、国全体が一つの巨大な国営企業になると、そこには巨大な「官僚組織」が生まれます。官僚は前例主義であって、新しいことにチャレンジすることはありません。また、内部の権力闘争・利害調整に多くのエネルギーが費やされるようになり、国民のための資源配分の最適化であるとか、成果物の最適配分であるとか、利便性の向上であるとか、そんなものより、省益や出世などが優先されるようになります。また人間関係のしがらみがシステムの運営にゆがみをもたらします。つまり生産と分配が、恣意的に操作されるようになります。一言で言えば、官僚制は「必ず腐敗します」。それは旧ソビエトや中国共産党で明らかでしょう。日本の官僚も同じと考えられます。

 なお、価格決定における市場の役割は非常に重要であって、市場抜きに価格を決めることはほとんど不可能です。価格を設定しなければ、貨幣を用いた分配システムは機能できません。市場原理(需要と供給のバランス)を無視して価格を決定すると、物価は安定しますが、必ず過不足が生じてしまいます。とりわけ希少品の分配は難しくなり、抽選でもしないかぎり不可能でしょう。分配型経済であっても、市場を無視することはできないと考えられます。

 このように、交換型経済にも分配型経済にも長所と短所があります。ですから、交換型経済あるいは分配型経済のどちらかに偏ることなく、それぞれの長所だけを生かし、短所をカバーするように両方のシステムをバランスよく利用することが、人々に高い満足度をもたらすと思われます。


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2020年8月29日土曜日

コロナ経済危機の真相とは?第10回

 第二章 コロナが明かす、市場経済の光と闇

コロナ経済危機は市場経済だから起きる

 さて、ここで経済システムについて、もう少し深く考えてみましょう。コロナ経済危機は現在の経済システムが市場経済システムだから起きるのであって、仮に経済システムが共産経済(※下記)であったなら、そうした問題は起きません。といっても、大部分の国民は何のことかさっぱりわからないと思います。なぜなら、ほとんどの皆さんは、市場経済と共産経済の仕組みの違いを何も理解していないからです。市場経済と聞けば、民主主義とか自由とか私有財産を思い浮かべるでしょうし、共産経済と聞けば、一党独裁政治とか私有財産の制限とか、そういう表面的な印象を思い浮かべるに過ぎません。しかし市場経済と共産経済の最も大きな違いは、市場経済が「交換型経済」であり、共産経済が「分配型経済」であることです。両者を簡単に説明すれば、交換型経済とは、それぞれの経済主体(個人や企業)がそれぞれに生産した財(モノやサービス)を互いに交換することで成り立つ経済であり、分配型経済とは、それぞれの経済主体がそれぞれに生産した財を、全員に分配することで成り立つ経済のことです。それぞれ、コロナ経済危機と絡めつつ、違いを考えてみましょう。

(※)ちなみに中国(中華人民共和国)は共産主義と思われていますが、現代の中国は共産主義ではありません。中国共産党による一党独裁の市場原理主義国家であり、国家資本主義とでも呼ぶべきシステムです。共産経済のシステムはみじんもありませんので、あらかじめご確認ください。

交換型経済(市場経済)

 市場経済とはどんな経済でしょう?それは「個別生産と交換」を基本とします。例えば魚を取る人(漁師)と農産物を生産する人(農夫)、がいて、それぞれはまったくの他人であって、彼らは共同体を形成しているわけではなく、同じ集落や同じ国である必要もありません。そして、漁師はもっぱら魚を捕り、農夫はもっぱら農産物を生産します。そして、それぞれが生産した財である「魚」と「農産物」を交換することで、互いの生活を豊かにすることができます。この交換活動が市場と呼ばれます。昔は文字通り、市場という場所に商品を持ち寄って交換していましたが、現在の取引は必ずしも特定の場所を必要としませんので、取引活動を総称して市場と呼ばれます。この経済システムでは、互いに交換するための、何らかの財をそれぞれが生産することを前提として成り立ちますので、何も生産できない人は必然的に市場から除外されることになります。

 このシステムにおいて、仮に何らかの理由で漁師が魚を取れなかったとします。すると漁師は市場で何も交換することができませんので、最悪の場合、漁師は何も手にすることができずに餓死することになります。一方で、農夫は農産物をいつもと同様に収穫しますが、市場で交換相手となる魚がありませんので、農産物は余り、腐って捨てられてしまいます。つまり、漁師が餓死する傍らで、農産物が余って捨てられてしまうわけです。この経済では、社会の人々はあくまで赤の他人であり、共同体ではありません。赤の他人が生きようが死のうが、基本的には関係ありません。これが自己責任社会です。

 さて、これをコロナ経済危機に当てはめて考えてみましょう。今回のコロナ災害の場合、感染を恐れて人々が外出を控えたり、政府が感染拡大防止の観点から、国民に外出の自粛を求めたりしました。その結果、飲食店などに来店するお客様が激減して、外食産業の売り上げが壊滅的な状況になってしまいました。外食産業は先ほどの例で言えば「漁師」に該当します。そのため、外食産業に従事していた人々は、所得の低下や解雇を余儀なくされます。

 外食産業は、外食サービスという財を生産し、それを市場で販売しています。市場において外食サービスとおカネを「交換」するわけです。お客さんが来店しなくなるということは、外食サービスの生産ができなくなることと同じです。外食産業のようなサービス業は製造業と違って、事前に商品を生産しておくことができず、顧客が来店して初めて生産されるので、少し特殊な性質があります。いずれにしろ、市場で交換するための財を生産できなくなるため、外食産業に従事する人々は、市場でおカネを得ることができなくなってしまいます。おカネが得られなければ、生活に必要な資材を市場で買うことができず、外食産業に従事する人々の生活が破綻します。

 さて、コロナ災害では最初に外食産業がダメージを受けますが、この段階では他の産業、農業や製造業などにほとんど影響はありません。外食産業は、先ほどの例で言えば「農夫」に該当します。食料品や日用雑貨、衣類などの生活必需品は、これまでと同じように潤沢に生産され、小売店にも商品が潤沢にあります。

 ところが、外食産業に従事する人々の所得が減ると、それらの人々の購買力が減りますから、食料品や衣料品、電化製品、雑貨などの売り上げが減少してしまいます。すると、農業や製造業でも売り上げが減少するため、それらに従事する人々の所得が減少します。そのため、それらの人々の購買力も低下して、社会全体として売り上げが減少してしまいます。ここで注目すべきなのは、最初の段階では、外食産業だけに生産の低下が起きるのですが、それが農業や製造業の生産も引き下げる結果になるということです。農業や製造業に何の問題も発生していないにも関わらず。そして経済全体が貧しくなる。

 再び、先ほどの例で考えてみましょう。はじめは、漁師が100の魚を生産し、農夫が100の農産物を生産していました。それぞれ自分たちが食べる量を50とすると、それぞれ50の生産物が余剰になります。この余剰の生産物を市場において、それぞれ交換することで、それぞれが50の魚と50の農産物を手に入れることができました。この時点における社会全体の生産量は魚100+農産物100=200です。

 ここで何らかの問題が生じて漁師の魚の生産がゼロになってしまうと、市場で交換するモノが何もなくなるので、漁師はそれまで手に入れていた農産物を手に入れることができなくなります。一方で、農夫は100の農産物を生産できますが、50は余剰生産分ですので、市場で交換したいのですが、交換相手である魚がありませんので、交換できません。そのため、50の農産物はやがて腐って捨てられることになります。この時点における社会全体の生産量は魚0+農産物100=100です。

 こうなると、農夫は生産するだけ無駄なので、農産物の生産量を50に引き下げてしまいます。生産能力はあるのですが、市場に交換する相手がないので、生産を止めてしまうわけです。この時点における社会全体の生産量は魚0+農産物50=50です。このように、魚の生産量が100減少すると、その影響は魚の生産にとどまらず、農産物の生産量も50に低下してしまいます。特定の産業に問題が生じると、それが連鎖的に社会全体の生産を縮小してしまうのです。

 もちろん、これは2つの産業からなる単純化モデルであって、実際の社会では様々な産業があるわけなので、ここまで極端になることはありません。しかし市場経済には、連鎖的に社会全体の生産を収縮してしまう性質を有することは間違いない事実でしょう。

 その例として有名な現象が「デフレスパイラル」です。多くの人々は、所得が減ると生活防衛のために財布の紐が固くなり、消費を減らして貯蓄を増やそうとします。多くの人が消費を減らすと、企業の売り上げが減少してしまいます。そのため、企業は経営が苦しくなり、従業員に支払う給料を引き下げざるを得なくなり、企業で働く人々の所得が減少します。そして所得が減少した人々は、ますますおカネを使わなくなる。すると、ますます企業の売り上げが減る。こうして、経済がどんどん縮小するのが、デフレスパイラルです。市場にはこのような性質があるため、新型コロナウィルスによる活動自粛は、連鎖的に経済活動全体を縮小へと向かわせる傾向があります。

 そして、ここには大変に重要なことがあります。この生産の縮小は、災害や戦争などによって生産能力が破壊されるために起きているのではない、という点です。仮に災害や戦争によって生産設備が破壊されることで生産不能になったのなら、生産量が減って人々が貧しくなることは避けられません。しかし、コロナ経済危機はそうではありません。生産能力に問題が生じるのではなく「売れないから、意図的に生産を止めてしまう」ことによって生じます。生産能力は何らダメージを受けていないのですから、生産すれば国民が貧しくなることはありません。しかし、作らないのです。「売れないから作らない」という理由で国民全体が貧しくなるのは、非常に馬鹿げた現象です。しかし、市場経済ではそうしたことが当たり前のように起こります。

分配型経済(共産経済)

一方、共産主義に近い考え方である「分配型経済」では、そうした連鎖的な経済の縮小は起きません。なぜでしょうか。次にそれを考えてみましょう。

 なお、最初にお断りしておきますが、私は本書において「だから共産主義は正しい」とか「資本主義を捨てろ」と主張するつもりは毛頭ありません。そうした急進的な社会改革は、まず成功しません。そうではなくて、現在の経済システムをより優れたものに改善するためのヒントを、他の経済システムからも貪欲に学ぶべきだとの立場です。最初から否定して目を背けるだけでは、何も学習できません。功罪を正しく理解する必要があります。

 分配経済は「共同生産と分配」を基本とします。それぞれの経済主体(個人や団体)が共同作業で財を生産して、それを集めて分配する経済です。それらの経済主体は赤の他人ではなくて、共同体を形成しており、密接な関係にあります。その原点は原始共産制の社会にあります。はるか昔の時代、人々は集落を形成し、集落単位で狩猟採取や原始的な農作業を行い、生活していたと考えられます。これが共同体です。そうした時代では、共同体の構成員である人々は共同あるいは分業で生産活動を行っていたでしょう。ある人は海に魚を捕りに行き、別の人は村の畑で農作物を栽培するわけです。そして、それぞれが収穫物を持ち帰り、集落の構成員で山分けにするわけです。これが共同生産と分配の経済です。

 こうしたシステムでは、仮に何らかの理由で魚が取れなかったとしても、魚を捕る役割を担っていた人が飢えることはありません。なぜなら、生産物をみんなで山分けにするわけですから、仮に魚が取れなかったとしても、畑で採れた農作物はすべての人に平等に分配されます。それぞれが生産したモノを交換するのではなく、みんなに分配するのですから、この社会に飢える人は出ません。そもそも共同体なのです。共同体の構成員を飢えさせるわけには、いかないのです。もちろん、怠け者に分け前は与えられないかも知れませんが。

 現代社会において分配型の経済が体現されるとすれば、どんなシステムになるでしょうか?今日、世界のほぼすべてが市場経済システムであるため、確たることは言えません。一つの考え方を示します。分配型の経済は社会全体が大きな共同体であるため、すべての個人や企業は共同体の管理主体であるところの政府に属することになるでしょう。巨大な国営企業にすべての人が就職しているようなものです。ですから、生産主体が生産した商品はすべて政府に集められ、それを政府が販売する形になるでしょう。それぞれの人は、それぞれの仕事の役割や成果に応じて、政府から給料を受け取って、それを用いて政府から様々な商品を買うわけです。このようなシステムであれば、おカネは常に政府から各個人に支給されますので、失業する人は誰もいませんし、生活に困窮する人は誰もいなくなるわけです。

 さて、これをコロナ経済危機に当てはめてみましょう。外食産業が自粛や政府の休業要請によって壊滅的に売り上げが減少したとします。交換型経済では、社員への給料は企業の売り上げ金の中から賄われますので、企業の売り上げがゼロになると、給料が一円も払えなくなります。一方、分配型経済の場合、給料は政府から出ますので、今までと同じように支給されます。なぜなら、政府は外食産業以外の産業で多数の売り上げを有していますし、また、政府は通貨を発行する権限も有していますので、社員に給料を払うためのおカネが不足することはありません。従って、外食産業の売り上げが壊滅状態になったとしても、外食産業に従事する人々の給料が減ることはなく、その悪影響が経済全体に連鎖することはありません。

 最初の例で考えてみましょう。はじめ、魚を捕る人が100の魚を捕り、農作業をする人が100の農産物を収穫し、それを集めて、それぞれに魚50と農産物50を分配していました。この段階における生産量は魚100+農産物100=200です。一方、何らかの理由で魚の収穫がゼロになってしまったとしても、農産物100をそれぞれ50ずつ分配します。こうすると農産物が余ることはありません。この時の生産量は魚0+農産物100=100です。農産物100が余ることなく消費されるので、生産量が減らされることはありません。このように、分配型の経済の場合は、どこかの産業分野で問題が生じたとしても、その影響が他の産業に連鎖して、経済全体が縮小へ向かうことはありません。

 以上の考察より、もし、今日の経済システムが市場経済であり、かつ、コロナ感染拡大の影響によって外食産業の売り上げが壊滅的な状態になったとしても、分配型経済と同じように、それらの企業や従業員に対して、政府から必要十分なおカネが給付されるのであれば、連鎖的な経済縮小を防ぐことができることが理解されると思います。だから給付金が必要とされるのです。給付金の目的は困っている人を助けるためとか、そういう感情的な意味ではありません。経済システムの維持のためにおカネを給付するのです。

 「なぜ自粛によって経済がダメージを受けるのか?」。多くの国民はこのことを「自粛で売り上げが減るんだから、経済がダメージを受けるのはあたりまえ」程度にしか考えていないでしょう。しかし、これは現在の市場経済システムに組み込まれている性質によるものです。なぜこうした事態を引き起こすのかよく考えないと、問題の本質を理解することはできません。そして問題の本質を理解できなければ、効果的な対策を考えることはできないでしょう。

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2020年8月25日火曜日

コロナ経済危機の真相とは?第9回

 アフター・コロナは「無人化」と「給付金」

 「コロナ後の新しい生活様式(ライフスタイル)を守りなさい」と、政府や識者が、マスコミを通じてさかんに人々に呼び掛けています。ウィルスの感染を防止しながら、同時に社会活動・経済活動を行うと言います。しかし、コロナ後の世界を生きるには、新しい生活様式だけでは十分と言えません。新しい生活様式と同時に、新しい「生産様式(プロダクトスタイル)」が必要です。新しい生産様式とは「無人化」です。

 なぜ、無人化が必要なのか?もし、将来的に、致死率50%を超えると言われる鳥インフルエンザ・ウィルスのような感染症が流行した場合、コロナウィルスよりさらに強く社会活動・経済活動を制限する必要が生じると考えられるからです。そうなると、生活必需品の生産にすら支障をきたす恐れがあります。一方、人間が働かなくても、ロボットや完全自動生産工場が人々の生活必需品を自動的に生産できる体制が整っていれば、安心です。仮に大部分の人が自宅で待機していたとしても、少数の人々が生産活動するだけで、生活必需品の供給は確保できます。

 また、生産と同時に物流の無人化も重要です。いくら人工知能や完全自動生産工場があったとしても、生産のための資源を工場に届けなければ何も生産できません。同時に、生産された財を消費者に届けるための小売りについても、宅配の無人化が必要になります。生活必需品を買うために、人々がスーパーやコンビニなどの店舗へ行けば、感染拡大のリスクがありますので、自宅に待機したまま、自宅で必要な生活必需品を注文し、受け取ることができるシステムが必要です。

 また、医療などのサービスについても、離れた場所からリモートで対応できるようなシステムができれば良いでしょう。病院へ行かなくとも、各家庭に基本的な検査機器があれば、インターネットで受診することもできるでしょう。また、介護なども人工知能ロボットの訪問による対応が可能になれば、介護士を介した感染リスクを抑えることができます。こうした遠隔操作技術の進歩により、人間が直接そこへ行って接触しなくとも、様々なサービスを提供できるシステムの開発が待たれます。

 このように、「人間の労働を必要としない経済システム」が経済の根本に据えられるなら、経済活動を気にすることなく、感染症対策を徹底することができますから、パンデミックリスクに対して、非常に強い社会になります。もちろん、人間の労働が不要になれば、大量の失業者が生まれますから、働かなくても国民におカネを給付する「給付金制度」が必要になります。無人化された生産システムで生活に不可欠なモノやサービスを生産し、その分配のために、国民におカネを給付する。それが経済の基本部分になるわけです。このシステムは、生活のための基本的な生産と分配が無償で提供される社会を実現します。人類が目指すべき社会形態の一つでしょう。コロナ災害を機に、こうした未来社会の実現へ向けて前進するならば、まさに一石二鳥、災い転じて福と成すことになるでしょう。

 繰り返しますが、生産活動が無人化されたからといって、怠惰で退廃的な社会になったり、人間の活動が意味を失って、無感動で無関心な社会になったりすることはありません。無人化は、生活必需品の生産のための半強制的な労働を不要にするだけであって、人々はそれ以外の活動、例えば様々なスポーツ、芸術、趣味あるいはボランティア活動など、自主・自発的な活動にますます打ち込むようになるでしょう。今日の社会のように、大部分の人々が生活のために自分の夢をあきらめて、賃金を得るためだけに単純でつまらない労働に耐えるだけの生涯を送る、そんな必要はなくなります。

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2020年8月24日月曜日

コロナ経済危機の真相とは?第8回

 ますます望まれる「政府の借金増加」

 このように、企業においても家計においても、貯蓄は危機に対する緩衝材(保険のようなもの)として働きますので、経済の安定化のためには貯蓄を増やす必要があるわけですが、貯蓄を増やすためには、そもそも「おカネ」が必要です。世の中のおカネの量が少なければ、企業も家計も、貯蓄を増やせるはずがありません。では、おカネはどうすれば増えるのでしょうか?

 残念ながら現代の社会では、おカネの供給(発行と流通)について国民が十分な知識を持っているとは言えません。大多数の国民は「おカネは日銀が発行する」と考えていますが、それは間違いではないにしろ、その程度の知識では、ほとんど何も知らないに等しいと言えます。実際のところ、おカネの大部分は日銀ではなく民間銀行(市中銀行)が発行しています。

 ところで、おカネはバランスシートという会計のシステム、つまり帳簿によって管理され、帳簿によって生み出されます。いくら輪転機を回して紙幣を印刷しても、帳簿に記載されなければ意味をなさないのです。つまり、おカネとは帳簿ありきです。そして、帳簿を操作することでおカネを生み出すことができるのは、「銀行(日本銀行および民間銀行)」です。日本銀行は現金を発行し、民間銀行は預金を発行します。現金も預金も、どちらもおカネとして機能します。ですから、世の中のおカネを増やすには、日本銀行または民間銀行がおカネを発行すればよいわけです。

 そして、銀行がある一定額のおカネを発行するためには、誰かが銀行から同じ額の借金をしなければなりません。例えば100万円のおかねを発行するには、誰かが銀行から100万円の借金をしなければならないのです。誰かが新たに銀行から借金をすることで世の中のおカネが増える、これが今日の金融システムの基本である「信用創造」になります。日本銀行あるいは民間銀行のどちらから借金しても、おカネが発行されます。ただし、日本銀行は政府や民間銀行におカネを貸しますが、一般の家計や企業におカネは貸しません。一般の家計や企業がおカネを借りるのは、もっぱら民間銀行からになります。民間銀行から家計や企業がおカネを借りた場合は「預金通貨」が新たに発行され、家計や企業の口座に振り込まれます。

 もし仮に、誰も銀行から借金をしなければ、おカネは一円も発行されません(正確に言えば、10円や100円のような政府通貨を除く)。だから世の中のおカネを増やそうとすれば、必ず誰かが銀行から借金を負わねばなりません。では、いったい誰が借金をすれば良いのでしょうか?企業や家計がおカネを貯蓄するのであれば、企業や家計とは別の主体が借金をしなければならないわけです。となると、政府しかありません。政府が借金することでおカネが増え、その増えた分だけ企業や家計が貯蓄を増やすことができます。実際には政府は「借金(=借り入れ)」という形態ではなく、国債(=債権)の販売によって、世の中におカネを供給することになります。従って、企業や家計が貯蓄を増やすために、政府が借金を増やすことは極めて当然であり、政府の借金なくして企業や家計の貯蓄増はあり得ないのです。逆に言えば、財政再建するために政府が借金を減らしてしまえば、つまり、現在、1000兆円をこえるという政府の借金を減らしてしまえば、その分だけ企業や家計の貯蓄は消えてなくなります。これは今日の金融の仕組みから言って常識であり、誰も否定することはできない事実です。

 もちろん、国債を大量に発行すると、政府が国債の保有者に支払う国債金利の総額が膨れ上がる恐れがあります。その支払い金利は国民の税金として国民負担を増加させますので、国債の発行を増やす場合は、金利負担を軽減する必要があります。それが日本銀行による国債の買い入れになります。なぜそれが国民の金利負担を軽減することになるのでしょうか?

 日本銀行が国債を保有した場合、政府は日銀に国債の金利を支払わねばなりません。日銀に支払われた金利は日銀の利益になりますが、日銀の利益は国の財産ですので、国庫に納められます。つまり政府に戻ってきます。ですから、日銀が保有する国債については、事実上、金利負担は無いと言えます。今日、金融緩和政策の一環として、日銀が既発国債を市場から大規模に買い入れる「量的緩和政策」を実施しておりますが、これを継続するとともに、必要に応じて、日銀が政府から国債を直接に買い入れるようにすれば良いでしょう。それが、世の中のおカネを増やす方法です。

 このように、企業や家計の貯蓄を増やし、危機に対して安定的な経済を作るには、金融の基本的な仕組みから考えると、政府の借金は減らすどころか、ますます増やさねばならないのです。

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2020年8月23日日曜日

コロナ経済危機の真相とは?第7回

 企業や家計の貯蓄が必要

 今回のコロナ危機によって明らかになったことは、企業の内部留保の重要性です。感染拡大防止のために企業の活動が制限されると、企業の売り上げが減少し、利益がなくなり、経営が赤字になります。その状態が続くと、企業は倒産してしまいますので、経費を削減するために社員を解雇します。それにより失業者が増大する恐れがあります。今日のように、国民におカネを給付する制度が整っていない場合、失業者の増大は経済に深刻な悪影響を及ぼします。

 ところで、もし、企業が十分な内部留保を保有していたなら、仮に売り上げが激減して経営が赤字に陥ったとしても、内部留保を切り崩して社員の賃金に充てることで、雇用を維持し続けることが可能です。ですから、企業の内部留保は、コロナ危機や金融危機のような一時的な経済危機、不況に対して「雇用を維持する」意味において重要であることがわかります。もちろん、内部留保が十分あるにも関わらず、ためらいもなく従業員を解雇する企業もあるでしょうが、そうした企業は社会的な批判・制裁を受けて然るべきでしょう。

 内部留保のない場合であっても、銀行が融資に応じるのであれば、借り入れによって、社員の雇用を維持することは可能です。今回のコロナ危機の対策として、政府が企業に対する無担保、無利子の貸し出し支援を行いました。しかし、それは企業の借金を大きく膨らませることになってしまいます。仮に雇用を維持できたとしても、企業は将来においてその借金を銀行に返済しなければなりませんので、企業の経営は厳しいものになります。将来へのツケです。感染終息後も、長期にわたって利益の多くを借金の返済に回すことになり、利益を再投資に振り向けることができません。従って、日本の経済成長が長期にわたって鈍化するでしょう。

 ですから、経済危機がしばしば起きる時代にあって、危機に備えて企業が内部留保を厚くすることは、雇用維持のためにむしろ良い事であると言えます。そもそも日本の企業が内部留保を貯め込むようになったのは、バブル崩壊による経済危機で多くの企業が苦労した際に、政府の支援が十分でなかったと企業が感じているからではないでしょうか。危機の際に政府に期待できないのであれば、自ら危機に備えることは企業として当然の選択です。危機の再来が避けられないのであれば、むしろ企業に対して、危機の際の雇用維持を目的とする内部留保の積み立てを推奨すべきかも知れません。雇用維持のための積立金については、法人税を非課税にするなどです。

 企業だけでなく、家計においても貯蓄は危機に対する備えとして重要です。国民の各家計が十分な貯蓄を有していれば、仮に給与所得が減少あるいは失業しても、貯蓄を切り崩すことで生活できます。もちろん、先ほどご説明したような国民への給付金制度、すなわち、すべての国民に無償でおカネを支給する制度が実現していれば、危機に備えておカネを貯めこむ必要はないでしょう。しかし、現在はそうした給付金制度はありませんので、自衛手段として、国民が貯蓄を増やす必要があると思われます。

 とはいえ、家計全体としては、貯蓄がないわけではなく、むしろ過剰なほどあります。家計の貯蓄であるところの、「家計の金融資産」は総額で1800兆円を超えて、ますます増え続けています。総額としては、日本の家計は、ものすごい金持ちです。ところが、その一方で、無貯金の世帯数が増加し続けていることから、貯蓄が一部の富裕層に偏在していることがわかります。こうした「国民の資産格差」を是正しなければ、一部の富裕層がおカネを貯め込んだところで、危機に対する経済リスクを軽減することはできないでしょう。

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2020年8月22日土曜日

コロナ経済危機の真相とは?第6回

 国民におカネを給付する制度が必要

 この問題を解決する方法は極めて簡単です。科学技術の進化に伴って、そもそも人間が働かなくても自動的に財(モノやサービス)が生産されるようになるのですから、人間が無理に働く必要などありません。「働かなくても所得が得られる社会」にすれば良いだけなのです。未来において、人間の働く必要がない社会、働かなくても、すべての人が所得を得られる社会が実現しなければなりません。

 もちろん、明日からいきなり「働かなくても高額なおカネがもらえるようになる」わけではありません。テクノロジーの進化によって人間の労働力が余剰になりつつあるとはいえ、現段階では、まだまだ労働力も必要とされています。ですから、いきなり高額なおカネを国民に支給するのではなく、まず、すべての国民に毎月1万円を支給するところからはじめればよいのです。こうして、徐々に、誰でもおカネがもらえる社会になる必要があります。そうすれば、科学技術の進歩の恩恵を一部の富裕層が独占することなく、すべての人々に分配することができ、豊かな社会を実現できます。

 また、働かなくてもおカネが支給される時代になったとしても、働くことが禁じられるわけではありません。おカネを受け取る一方で、それに加えてこれまでと同様に、働いておカネを稼ぐこともできます。また、働くと言っても、必ずしもすべてが賃金労働である必要はありません。さまざまなボランティア活動も労働ですが、賃金が得られるわけではありません。自らの自発的な意欲に従って、様々な活動を行うことが期待されます。これまでの社会のように「カネが無いから仕方なく働く」のではなく、「カネとは無関係に、社会貢献、名誉、自己実現のために働く」社会になります。

 こうして、生活必需品を買うために十分なだけの所得を、たとえ働かなくても、誰でも無償で得られるようになれば、仮に今回の新型コロナウィルスのような伝染病が発生した場合でも、経済を破綻させることなく、感染拡大防止のための行動制限を長期的に維持することが可能になります。

 今回の新型コロナウィルスは感染力が極めて高いものの、毒性はそれほど強くなかったため、行動制限を早期に解除する国も多数出てきましたが、これがもし、鳥インフルエンザのような致死率50%に達する猛毒性のウィルスが発生した際には、行動制限の早期解除など絶対にできません。そうした猛毒性の感染症が流行した場合に備えて、生活必需品を買うためのおカネを無償で人々に給付する社会制度を事前に実現しておくことは大切です。感染症が国境を越えて自由に行き来するグローバル社会なのですから。仮に永続的な給付金制度の早期実現が難しい場合であっても、パンデミックの際には、感染が終息するまでの間、人々におカネを無償で給付する仕組みを整える必要があることは明白だと思います。

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2020年8月21日金曜日

コロナ経済危機の真相とは?第5回

 完全雇用を前提にする社会は脆弱

 コロナ感染症対策を徹底できないことの原因は、結局のところ「失業者を増やすわけにはいかないから」です。仮に「有っても無くても生活に支障のない産業」であったとしても、活動を止めることはできません。止めれば失業者が溢れてきます。政治家が盛んに「雇用を守る」と繰り返しますが、それは、人々のすべてに仕事があること、つまり完全雇用が求められる社会であることを意味します。そのために、感染症対策を徹底することができないのです。

 この「完全雇用を前提とする社会」は、コロナ感染対策において制度的欠陥を垣間見せているわけですが、今後は間違いなく、もっと大きな課題を我々に突きつけてくるでしょう。科学技術が進化し、人工知能や完全自動生産工場が普及するにつれて、完全雇用という制度的欠陥は、より深刻なものになります。つまり、「人工知能や完全自動生産工場が本格的に導入され、大部分の人々が失業する時代になったら、どうするのか?」ということです。

 例えば、感染拡大防止に有効な手段として「無人化」が挙げられています。感染症は人から人へ感染しますので、様々な社会活動・経済活動において、人間のかかわる部分を減らすことが有効です。また、人間が関わることなくモノやサービスが生産できるようになれば、仮に感染予防のために人間が自宅に引きこもってしまった場合でも、モノやサービスが自動的に生産されますので、供給不足になる心配がありません。幸いなことに、人工知能や完全自動生産工場の技術が急速に進歩しており、人間が関わることなく、自動的に多くのモノやサービスを供給できるようになる可能性が十分に高いと思われます。

 ところが、こうした無人化は別の問題を引き起こします。産業が無人化すると、大量の失業者が発生するのです。すると、失業者を雇用するために、新たな産業を興さねばならなくなります。その産業は当然ですが、人間が関わる仕事になるはずです。人間が関われなければ、雇用が生まれませんので。すると、ある産業を無人化したところで、新たに有人の産業が生まれるわけです。その産業はまさに「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなる産業」であり、なおかつ、いざパンデミックになった際には、自粛対象にされてしまうような感染ハイリスクの産業なのです。このように、完全雇用に固執する限り、永遠に感染症に弱い社会のままである、というまさにナンセンスなことが起こります。

 今回のコロナウィルス災害では、経済活動の制限・自粛によって仕事を失う人が大量に出てきたために大問題になっているわけですが、これがコロナウィルスではなく、人工知能や完全自動生産工場が普及しても、同じように多くの人が仕事を失うわけです。コロナウィルスの場合は、感染が終息すれば失われた仕事は元に戻るわけですが、人工知能や自動生産工場の場合は、失われた仕事は二度と戻りません。はたして政府はどうするつもりなのでしょうか?

 これまでの時代の常識で考えれば、失業を減らすために「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなる産業」をさらに興す必要があります。しかし、そもそも「有っても無くても生活に支障がない」のですから、そうしたモノは、本質的には需要が少ないのです。それを売り込むために、人々の欲求を掻き立て、購買欲を引き出す宣伝広告がマスコミによって流され、人為的にファッションなどの流行を仕掛けて、消費を拡大させることになります。人々の欲望を刺激して、需要を喚起する必要があるわけです。

 こうなると、健康で豊かな社会生活を維持するために生産活動を行っている、というより、必要あろうが無かろうが、とにかく失業者を増やさないために、新たな産業を作り出すことが生産活動の目的になってきます。人工知能や自動生産機械が進化して、人々が失業するたびに、それを延々と繰り返すわけです。おかしいと思わないのでしょうか?しかも、そんなことを永遠に繰り返すことは可能なのでしょうか?無限に生産と消費を増やし続ければ、資源は枯渇してしまわないのでしょうか?

 そもそも、何のために科学技術を研究して、生産の自動化を推し進めるのでしょうか? 人々を楽にするためです。人間の労力を減らして、楽に財(モノやサービス)を生産するためです。ですから、本来であれば、科学技術が進化して生産性が向上すれば、人々は働かなくても良くなるはずです。ところが現代社会では、「働かないと所得が得られない仕組み」になっていますので、このままだと、どれほど科学技術が進化して、自動生産ができる社会になっても、人々は決して労働から解放されることはなく、永遠に働き続けなければなりません。

 しかも、生産の自動化が進んで人手がいらない社会になれば、労働市場では労働力が常に供給過剰になります。人手が余りまくります。そうなると、賃金はどんどん低下してしまいます。つまり、人工知能や完全自動生産工場の進化に伴い、世の中から仕事がどんどん消えてなくなり、あったとしても、非常に安い賃金しか貰えない社会になるのです。つまり未来社会はブラック企業ばかりが跋扈する社会になります。

 なぜ、こうなってしまうのか?理由は極めて簡単です。完全雇用を前提とした社会だからです。「すべての人が労働する社会」を前提としているからです。「働かなければ一円の所得も得られない社会」だからです。そのため、失業者に必ず仕事を与える必要があり、社会にとって必要であろうとなかろうと、とにかく仕事を作り出して雇用しなければならないわけです。

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2020年8月20日木曜日

コロナ経済危機の真相とは?第4回

 なぜ日本経済は「依存症」になったのか?

 日本の経済が「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなる産業」に依存するようになった理由は大きく、二つ考えられます。

生産性の向上

 100年くらい前の時代を考えてみましょう。その当時は生産性が今日と比べて非常に低い時代でした。生活必需品である食料について考えてみると、当時は機械も農薬もなかったため、農業は非常に手間のかかかる仕事でした。そのため、農業生産つまり第一次産業に多くの人々が従事していました。ところが、技術革新によって農業に機械や農薬などが導入され、農業の生産性がどんどん向上してくると、人手がいらなくなり、人手が余ってきます。そうした人々は職を失い、失業者が溢れてきます。そうした人々は、今度は例えば生活必需品である衣類の生産、あるいは住宅の建設といった第二次産業にかかわってきます。そうすることで、人々の生活必需品である食料、衣類、住宅の供給が増えて、生産性の向上とともに、人々の生活も豊かになってきました。

 しかし、科学技術の進歩はとどまることがありません。生活必需品のほとんどが潤沢に生産できるようになっても、それ以後もますます多くの機械が発明され、それらが生産の現場に導入されることで、人手が余り、失業者がどんどん増えてきます。失業者は生活に困窮しますし、そうした状況を放置すれば社会に不幸が蔓延して、不安定になります。つまり、何らかの産業を作り出して雇用を増やし、失業者を減らす必要性が出てきたわけです。すでに生活必需品の供給は十分にあるのですから、当然ながら、それ以後に生産される財(モノやサービス)は「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなる」ものになるわけです。その多くは第三次産業になります。従いまして、科学技術が進歩している国ほど、つまり先進国ほど、第三次産業の割合が高くなります。

 このように、科学技術が進歩して生産性が向上すればするほど生産に人手がいらなくなり、失業者が増大します。そうした失業者に仕事を与えるために、「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなる産業」の経済活動全体に占める割合が、どんどん増加していくことになります。ということは、この先の未来の社会においては、ますます「有っても無くても良い産業」が増加すると予想され、経済活動や人々の生活がますます不安定化すると予想できます。

グローバリズムと産業の空洞化

 日本ではバブル崩壊以後、グローバル化の進展とともに、多くの企業が生産工場を海外へ移転するようになりました。これらの企業は製造業であり、第二次産業に該当します。つまり「生活必需品の生産部門」が海外へ出て行ったわけです。また、リーマンショック以後も、日本の円高を嫌って、ますます多くの企業が日本国内での生産ではなく、海外での生産、海外からの調達に切り替えるようになりました。そのため、日本国内で製造業、第二次産業に従事していた人々の職場が失われ、失業が増大しました。それらの失業者を吸収したのが第三次産業、すなわち「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなる産業」だったのです。

 ところで、日本企業の工場の多くは中国に移転しました。つまり日本の人々の生活に必要なモノを日本で生産するのではなく、中国で生産するようになったわけです。中国で生産されたモノを買うためには、中国におカネを支払わねばなりません。つまり、中国で生産されたモノを買うためには、中国からおカネを得る必要が生じてきました。そこで、中国から観光客を連れてきて、日本で観光サービスを提供(生産)し、中国人からおカネをもらうことになりました。そして、中国人観光客から受け取ったおカネで、中国で生産されたモノを買うわけです。このように、経済のグローバル化に伴い、生活必需品の生産拠点を日本から中国へ移転してしまったために、日本は中国からの観光客に依存せざるを得なくなったのです。これがインバウンド依存です。

 これら二つの要因は、少し考えれば誰でも気が付く程度の話なのですが、マスコミを始め、多くの学者、政治家、官僚は「臭いものに蓋をする」のが大好きで、こうした話を空気のようにスルーしつつ、「日本は生産性の向上に取り組むべき」「日本は観光立国を目指す」と、盛んに主張しているようですが、上記を見れば、トンチンカンも甚だしいとわかるでしょう。問題の原因を正しく理解できなければ、問題を解決することはできません。


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2020年8月19日水曜日

コロナ経済危機の真相とは?第3回

 必要ない産業に依存するから危機になる

 「現代の社会は、必要性の低い産業に依存して成り立っている」。こう主張すると、多くの人が気分を害することは間違いないでしょう。何しろ、あなたのやっている仕事の多くが「社会にとって必ずしも必要ではない」と言われて、自分の存在価値が否定された気分になるからです。日頃から「仕事の無駄を省け!」と生産性の向上に関心の高い人々も、この時だけは「世の中に無駄な仕事などない」と、いきり立つかも知れません。

 しかし、世の中に必要のない産業などない、と本気で信じているとすれば、誰かに騙されているにすぎません。もし、世の中のすべての産業が必要不可欠だったとしたら、世の中が不景気になるはずがないからです。そもそも、不景気あるいは不況とは何でしょうか?モノやサービスが売れなくなる状態を指します。景気が悪くてモノが売れないと言いますね。では、なぜ売れないのでしょうか?そのモノやサービスが、必ずしも必要ではないからです。もし生活に必要不可欠であって、なければ命にかかわるような重要なモノやサービスであれば、必ず売れます。もちろん、国民の大多数がカネに困るような「金欠状態」であれば、必要なモノであっても売れません。しかし、通常の不景気の状態というのは、カネがないから買えないのではありません。人々が財布の紐を締めてしまうから、社会全体の経済活動が連鎖的に悪くなるのです。消費者が財布の紐を締めて、不要不急の消費を減らしてしまうから、不景気になるのです。

 例えば消費者は、小売店での販売価格の変動やマスコミによる景気状況の報道を受けて、敏感に消費行動を変えます。仮に生活に何らかの不安を感じたなら、消費者はすぐに「節約モード」に入ってしまいます。そして生活に必要ではない部分の出費、すなわち観光、外食、スポーツ、イベント、趣味娯楽の出費を抑えます。仮に、こうしたモノやサービスが生活必需品であったなら、大きく消費が減ることはありません。これらのモノやサービスが生活にとって必ずしも必要ではないため、世の中を不安にするような何かがあると、すぐに消費が減ってしまうわけです。そして、消費が減ると世の中のカネ回りが悪くなるために、人々の所得が減少します。所得が減少すると、それが人々の不安をさらに高めることで、ますます財布の紐が固くなるという悪循環(デフレスパイラル)を引き起こすわけです。

 つまり、世の中の産業の多くは、本質的には「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなる産業」であり、しかしながら、それらの産業に多くの人々が従事することで、世の中のおカネを回しているという状況にあるわけです。繰り返しますが、だからと言って、観光や外食、趣味娯楽の産業に価値がないと言っているのではありません。ただし、そうした産業は必要性が低いゆえに、そうした産業に経済が依存している状態にあると、どうしても、経済そのものが不安定になってしまう。そうした産業が多ければ多いほど、社会環境の変化によって、経済活動が振り回されやすい状態になり、そのことが、多くの人々の生活を不安定にさせてしまうわけです。

 そして、今回のコロナ感染拡大防止対策と経済活動のジレンマのように、不要不急の活動を自粛することが、経済全体に大きな悪影響を及ぼす結果をもたらすわけです。それは良い事ではありません。ですから、仮に不要不急の産業の活動が一時的に抑制されたとしても、社会がきちんと成り立つ仕組みが必要なのです。しかも、そうした仕組みの必要性は、今回のコロナウィルスの感染拡大に対応するにとどまらず、これから先の、人類の未来社会において必要不可欠となることは間違いありません。なぜなら、未来の社会において、人々の仕事は、ますます「必ずしも必要ではない仕事」ばかり増えてくるからです。それにしても、そもそも、どうして現代の経済は「依存症の経済」になったのでしょうか?

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2020年8月18日火曜日

コロナ経済危機の真相とは?第2回

なぜ起きる?感染防止と経済活動のジレンマ

 世界の多くの国では、コロナウィルス感染拡大防止のために設けていた社会・経済活動の制限を緩和する方向へ向かいつつあります。とはいえ、まだコロナウィルスに対するワクチンや特効薬が開発されておらず、コロナウィルス感染症が終息したには程遠い状況です。にも関わらず、なぜ行動制限の緩和を急ぐのか?その理由は政府曰く「感染防止のために社会活動の制限を継続すると、経済が回らなくなる」ということです。街角で一般の人にインタビューしても、「行動規制を続けると経済が回らなくなる」と言う人がいます。しかし、「経済が回らなくなる」という表現は非常にあいまいで、具体的に何を意味しているのかわかりません。なんとなく理解した気になるだけです。具体的に言えば、「経済が回らなくなる」とは、どういうことでしょうか?

 生産活動が行われなくなり、モノやサービスが不足してしまうことを指すのでしょうか?確かにモノやサービスが不足すれば、人々は生活に困ります。では、コロナウィルス対策として、社会・経済活動を制限することで生産活動が滞って、モノやサービスの深刻な不足が生じるのでしょうか?

 ところが、そうではありません。2020年4月7日に政府が発令した「緊急事態宣言」は同年5月25日に解除されましたが、その間、モノやサービスの生産ができなくなり、モノやサービスが不足して人々の生活に多大な支障を生じたことはありませんでした。確かに行動制限によって自由に活動できず、マスクの着用やソーシャルディスタンスなどを強制され、人々にストレスが溜まったことは間違いないでしょう。しかし、スーパーや小売店、ネット販売では、生活関連の商品が潤沢に供給されており、モノ不足で生活に困っている人は、ほとんどいませんでした。

 もちろん、観光や外食、夜の街関連などの産業において、それらを利用するお客様が減り、売り上げは減りました。つまりそれらサービスの生産活動は行われませんでした。しかし、そうしたサービスの生産が減少しても、それだけではあまり問題にはなりません。なぜなら、観光や外食、あるいは接客業は「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなる産業」だからです。そのため、観光や外食などが制限されたからと言って、大多数の国民が、ただちに生活に困ることはありません。このような、「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなる」という産業は、実は日本経済の大きな部分を占めています。映画やスポーツ観戦、遊園地、イベント、趣味娯楽といった産業は、基本的に「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなる産業」です。

 一方で、食料品や衣料品、住宅関連のような衣食住、電気ガス水道のような生活インフラ、スーパーのような小売り、物流、あるいは医療と言った産業は「なければ命にかかわるほど重要な産業」です。前例の産業と異なり、これらの産業の生産活動が減少することは、生活必需品の供給不足を引き起こすため、ただちに人々の生活を困難にします。逆に言えば、こうした「なければ命にかかわるほど重要な産業」の活動を十分に維持できるのであれば、感染拡大対策としての行動制限が経済をマヒさせてしまうことは、本来であれば、ないはずです。だからこそ、2020年3~4月のコロナ感染拡大の急性期において、世界各国の政府は、生活必需品に関連した重要産業の活動を維持しつつも、それ以外の産業の行動を強く制限したわけです。

 生活必需品の供給さえ十分に確保されるのであれば、自粛によって「人々が生活できなくなる」ということは起きないはずです。だから社会・経済活動の制限によって、経済が回らなくなることはないはずです。ところが、今日の経済システムでは、そうはいかないのです。なぜなら今日、膨大な数の人々が「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなる産業」に従事しており、それらの産業が活動を停止したままだと、膨大な数の人々が失業(および賃金の減少)を余儀なくされることになるからです。

 膨大な数の人々が失業(および賃金の減少:以後、省略)すれば、社会全体の購買力が大きく損なわれてしまいます。するとモノやサービスが売れなくなって、深刻な不況を引き起こすことになります。また、社会全体の購買力が大きく落ち込むと、「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなるモノ」だけではなく、生活必需品も売れなくなります。あらゆる商品が売れなくなるので、社会全体で生産活動が行われなくなります。そして世の中には生活困窮者が溢れます。社会全体がマヒ状態に陥るのです。これが「経済が回らなくなる」ということです。つまり、経済が回らなくなるとは、社会活動の制限によってモノやサービスの生産に支障が出ることではなく、「失業者が増えてカネが回らなくなってしまう」ことなのです。カネが回らないので、モノが売れなくなり、生産が行われなくなる。こうして経済が破綻します。これは、同じくカネが回らないために経済が疲弊する「デフレ不況」にそっくりです。

 失業が増えると、世の中のカネが回らなくなって経済が破綻する。それを防ぐためには、感染拡大防止策よりも、とにかく失業者を出さないことが優先になるわけです。失業者を増加させないためには、仮に「無くてもなんとかなる産業」であっても、活動を止めることはできないのです。ある意味で、それは「無くてもなんとかなる産業」への「依存状態」であると言えるのです。このように、今日の経済活動の多くは「無くてもなんとかなる産業」、いわば不要不急の産業に依存しており、不要不急の活動を止めることができない「依存症の経済」なのです。

 もちろん、強調しておきたいことは、観光、外食、スポーツ、イベント、趣味娯楽など「無くてもなんとかなる産業」に、存在価値が無いという話ではありません。そうした産業が人々の生活の満足度を高めていることは事実でしょう。そうした意味では、人々の役に立つ、価値のある産業です。しかし、そうした産業に経済そのものが依存し、それなしでは経済が立ち行かない状況にあるならば、経済が健全であるとは言えません。

 本来であれば「経済が立ち行かなくなる」との懸念から、感染の再拡大を恐れつつも、止むに止まれず社会活動を再開するのではなく、新型コロナウィルスのワクチンや治療薬が開発されてから、何の不安もなく堂々と大々的に制限を解除すべきなのです。しかし、現代の経済は「不要不急の産業に依存している」ゆえに、不要不急の行動を制限し続けると、経済に致命的な打撃を与えることになるのです。こうした不要不急の産業への経済依存が、感染防止と経済の両立を難しくさせている根本的な原因なのです。そして、これは市場経済、つまり交換型経済に特有の現象であって、分配型経済には起こらない現象なのですが、それについては第二章で述べたいと思います。


2020年8月14日金曜日

コロナ経済危機の真相とは?第1回

新作です。本文およそ3万文字を、順次掲載します。

前書き

 政府やマスコミが盛んに報じている「コロナ時代の新しいライフスタイル」だけでは、コロナの時代の本質的な問題は何も解決できません。感染拡大を防止しながら経済活動を持続する、と口で言うのは簡単ですが、現実的には感染拡大防止と経済活動の両立は極めて困難と言えます。そもそも人々の行動自粛・行動制限によって、なぜ経済(社会)が著しい悪影響を受けるのか?その根本的な部分を理解し、対策を講じなければ、仮に今回のコロナウィルス危機が終息したとしても、新たに別のグローバル感染症が発生した際には、再び同じことを繰り返すことになるでしょう。なぜなら今日の経済が、「あれば便利だけれど、無くてもなんとかなる産業」に著しく依存しているからです。

 勘の鋭い人はすでにお気づきだと思いますが、その一例がいわゆる「インバウンド依存」(観光依存)と呼ばれる状態です。しかし、経済の依存状態はインバウンドだけではありません。少し注意して観察すればすぐにわかることですが、いまや経済の大部分が「必ずしも必要ではない産業に依存」していることが理解できます。それは今に始まったことではなく、すでに社会を大きくゆがめつつあったのですが、多くの人々はそれに気付かないか、あるいは無視してきたのです。そして、コロナ危機によって、その課題が表面化してきた。にもかかわらず、いまだに多くの国民がそれに気付かず、マスコミや識者も気付かないふりを続けているようにしか思えません。残念なことに多くの国民が、コロナ災害から肝心な事を何も学ばず、やれ新しいライフスタイルだの、みんなが団結してコロナの時代を乗り切ろうだの、政府やマスコミの広めている対症療法や精神論で丸め込まれているように見えるのです。

 しかも、コロナ経済危機に際して、財務省やマスコミが「財政再建が遠のいた」と騒いでいるのも、本当におめでたい。本当は財政悪化が問題なのではなく、財政再建しないと破綻する経済システムの方こそ真の問題なのです。無節操なグローバリズムの時代にあって、感染症がますますグローバルにエスカレートすることは防ぎようもなく、コロナウィルスのような感染症が流行するたびに、毎回毎回、経済が破綻するようであれば、それに対応できない経済システムの方に根本的な問題があると考えるべきなのです。そうです、グローバル感染症の時代に相応しい、「強い経済システムへの改革」が求められているのです。


2020年1月31日金曜日

コロナ騒動に見る現代資本主義の欠陥

中国発の新型コロナ肺炎ウィルス騒動によって、世界経済が大きな悪影響を受けるとマスコミが報道しています。最も卑近な例を挙げるなら、観光産業への影響です。中国からの観光客の減少により、観光産業の売り上げが減少し、景気に悪影響を与えるというのです。

つまりこうです。新型コロナウィルス騒動によって中国からの観光客が減ると、観光産業を中心に売り上げが減少し、そこに関連する人々の所得を押し下げ、購買力を減らします。すると、それらの人々の消費が減り、社会全体としての消費も落ちてしまう、というわけです。つまり観光産業から連鎖的に社会全体の景気が悪くなる、ということです。

では、なぜこんなことになるのか?

こうした災害に伴う不況の問題は、今回のような伝染病に限らず、様々な災害などの場面においても生じる現象です。例えば台風による広域災害、猛暑あるいは雪不足のような問題です。それらが景気を悪化させるのです。しかし、その原因について根本的に、あるいは経済の原点に立ち返って考えるような記事は、マスコミにはまったく見られません。お決まりの、どこかに書かれてあるような常識論が語られるだけです。しかし、経済のシステムの本質的な視点からこの現象を考えるなら、おそらく、現代資本主義の欠陥部分に行き着くのではないか、と思います。

現代の資本主義社会は市場経済であり、市場経済は、その原点が「交換によって成り立つ経済システム」「交換経済」です。つまり、それぞれの経済主体が生産した財(モノやサービス)を交換することでなりたちます。ということは、交換するための何かが常に必要であることがわかります。

そして、もし、ある経済主体が何らかの原因(災害など)によって財の生産ができなくなると、たちまち、この「交換システム」は機能不全になります。

例えば、AさんとBさんがいて、Aさんがお米を100生産し、Bさんがお魚を100生産し、互いにお米とお魚を50ずつ交換して生活していたとします。ある時、大干ばつがこの土地を襲い、Aさんはお米がまったく取れなかったとします。すると、AさんはBさんからお魚を得ることができなくなります。一方、Bさんはいつも通りにお魚100を生産しますが、Aさんがお米と交換できないため、取れた魚100のうち50は腐って捨ててしまいます。

はて、これがあたりまえなのでしょうか?今のマスコミに問えば「あたりまえ」「しかたない」と答えるでしょう。しかし、少し考えてみてください。

小さい頃、みなさんは、学校で「社会はそれぞれの人が分業して必要なものを生産しているのだ」という風な話を聞かされてきたのではないでしょうか。あるいは、なんとなく、そのように思い込んできたのではないでしょうか。社会は共同体であると。分業とは、互いに生産したものを分け合うことが前提となります。もし、みんなが必要とするものを、みんなで分業生産してるのだとしたら、仮にそのうちの誰かの生産が滞ったとしても、基本的には分業に携わってきた以上は、生産された財が、その人にも分配されるはずです。

例えば、今日では「会社」がこれに当たります。同じ会社に属して、様々な仕事を分業しているのですから、仮に会社のある収益部門の売り上げが何らかの理由で一時的に減少したとしても、その収益部門だけ報酬がなくなる、なんてことはありません。なぜなら、会社のような組織は「分業と分配」が基本システムにあるからです。もちろん、ある収益部門が慢性的に売り上げが少ない場合は、商品や販売組織の改変が必要なのは言うまでもありません。そうではなく、短期的な話です。つまり、一時的な生産の変動に対して、こうした「分業と分配」のシステムは、安定的であるという点が重要になりますです。

では、分業と分配という考えに基づいて、前例におけるAさんとBさんの場合について考えてみましょう。社会が生産共同体であるなら、Aさんはお米の分業を担ってきたと考えられます。そうなら、たとえ不運にしてAさんが干ばつでお米が生産できなかったとしても、Bさんの生産したお魚のうち、50がAさんに分配されるでしょう。そうすれば、生産されたお魚は無駄になりませんし、Aさんもお魚を得ることができます。これが分業と分配です。

ところが、現代の資本主義社会では、そうはなりません。BさんがタダでAさんにお魚をあげるのは「損した」ことになるわけです。なぜなら、頭が「交換経済」という考えに支配されているため、交換するものもないのに、与えることはできない、となるわけです。先ほどの会社の話を聞けば、会社組織における「分業と分配」には、みなさん、それなりに納得する点があると思うのですが、こと、市場における「交換経済」になると、「損した」となるわけです。常に交換するもの、代価がなければ成り立たない、これが市場経済の欠陥であり、それを前提として成り立つ現代資本主義の欠陥でもあるわけです。

つまり、子どもの頃に聞いたことがある「社会はそれぞれの人が分業して必要なものを生産しているのだ」は、実は嘘だったことがわかるのです。社会とは、実は、協働の場ではなく、交換の場に過ぎなかったわけです。あるいみ、それはコミュニティとは無縁の、何か殺伐とした無機質の機械のような印象を与えます。

一方で、社会主義(あるいは共産主義)の考え方は「分業と分配」であり、仮に何らかの災害によって、生産ができなくなってしまったとしても、その人たちにも、きちんと分配がされることになります。ただし、分業と分配に基づく社会主義経済は、市場の働きを無視する側面があるため、生産システムとして、資源の最適配分の機能に支障をきたすことは言うまでもありません。つまり、「交換の経済」と「分業と分配の経済」には、それぞれに一長一短がある、両者ともに不完全なシステムである、と考えられます。

では、現代資本主義の社会において、これに何らかの改善策はないのでしょうか?

実は、貨幣経済には、こうした市場経済の欠陥を和らげる働きがあります。市場経済は交換経済であり、基本的には生産した財を互いに交換することが求められます。しかし、貨幣経済においては、交換するものが財(モノやサービス)である必要はないのです。つまり、貨幣と交換することを介して経済が成り立つため、仮に財がなくても、貨幣があれば経済が機能することがわかります。これがいわゆる「売り上げ」です。

もちろん、これらの貨幣は、最終的には財と交換されることで、貨幣を仲介した財と財の交換を成立させるのですが、そもそも、貨幣の多くはため込まれて交換に利用されない場合も多いため、こと「交換」に関しては、ゆるい、タイムラグのある働きをしています。つまり、貨幣とは、交換経済において緩衝材のような性質も備えていると考えられるのです。

例えば、先ほどの例で言えば、仮にAさんがまったくお米を生産できなかったとしても、Aさんにおかね50があれば、それをBさんのお魚50と交換することで、Bさんは「損した」気分を味わうことなく、喜んでAさんにお魚50を渡すでしょう。だから経済が機能するのです。もちろん、実際にお米の生産が減っているわけですから、経済全体としての財の総生産は減っています。しかし、おカネさえあれば、災害が多方面に連鎖的に悪影響を与え、経済全体が悪化する事態は避けることができると考えられます。

つまり、Aさんがお金持ちであれば、経済への悪影響は軽減されます。貯蓄や内部留保をため込んでいる場合です。しかし、今の日本では貯蓄のない人も多いでしょう。資本主義社会では、災害保険がそれを補う働きをしています。仮に干ばつでお米が生産できなかった場合でも、Aさんが保険金として貨幣を外部から調達できるなら、影響は軽減されます。

しかし、保険はそれなりに高額ですし、すべての人が、そうした保険に加入するほど貨幣的な収入に余力があるとは限りません。今日のような慢性デフレ不況の状態では、ぎりぎりで、なんとかやりくりしている人も多いでしょう。ですから、自己責任だけで災害による不況を防ぐことは現実的とは思えないのです。そして、貨幣の調達は何も保険金に限る必要はありません。政府から調達することも可能なのです。

にもかかわらず、財務省は、なにかといえば「財源がない」と言ってカネを出し惜しみする。ゆえに、ウィルス騒動によって売り上げが落ち込んだ観光産業の人々の購買力が低下し、消費が落ち込み、それが引き金となって経済全体が連鎖的に不況になる。おそらく、緊縮と財政再建を企む今の官僚大国日本では、それが避けられないのです。実にばかばかしいと思います。

保険に頼ることなく、社会全体としてこうした事態に対応するために、政府が果たすことのできる役割は極めて大きいと考えます。なぜなら、貨幣の調達において、通貨発行権を有する「国家」こそ、最も強力だからです。何のことはありません、政府がおカネを発行すればいいだけです。何も特別なことではありません。今でも毎年のようにおカネは発行されているのですから、その量をすこし増やせばいいだけです。

具体的に言えば、例えば今回の新型肺炎ウィルスによる景気の落ち込みを回避するには、政府が通貨を発行し、観光産業の人々の所得が落ちないよう、あるいは、従業員が解雇されないような支援を行う方法があります。あるいは、政府が国民に旅行クーポンを発行して、中国人観光客の減少を日本人の観光の増加で補い、利用代金の支払いのために政府が通貨を発行する、といった方法もあると思います。

このように、貨幣は、経済を維持活性化するために利用できる手段の一つであり、あたかも貨幣を神聖視して出し惜しみするような真似はやめるべきです。貨幣を神聖視しても、私たちが貨幣の奴隷になるだけです。我々にとって大切なのは、貨幣の価値(貨幣の希少性)ではなく、経済活動そのものであり、財をより多く生産し、人々に行き渡らせることです。そのために、貨幣は利用すべき一つの手段にすぎません。

政府はカネを発行して国民に配りなさい。そんなことすらできないのであれば、経済システムとしての、今日の資本主義には重大な欠陥があると、断言せざるを得ないのです。