おかね(通貨)の信用、という言葉をマスコミや御用学者は好んで使うようです。そのため、多くの人がおカネは信用によって価値が決まると誤解しています。これは大変な間違いです。
そもそも、信用、という言葉はまったく科学的、学問的でありません。抽象的であいまいであり、口先三寸でなんとでも言えるからです。客観性も乏しい。数字で表すこともできません。ただし、直感的で印象的で宗教の教本のなかで用いるには適しているでしょう。
ですから、もし、科学的、客観的におカネの価値を考えるのであれば、信用という言葉ではなく、例えば、通貨と財の交換レートである物価、物価の変動率であるインフレ率として定義されるべきものです。
信用という抽象的な表現によれば、おカネの量を増やすと、信用が薄まって、おカネの価値が毀損する、といいます。驚くべきことに、本来は学問的であるはずの経済学者の中にも、こんな抽象論を堂々と述べる人がいたりするので、腰が抜けるほど驚いてしまいます。ところが、学者先生が言うから、こんな抽象論でも一般庶民は少なからず騙されることになります。
しかし、おカネを増やせば単純にインフレになるわけではありません。日本のマネーストックの供給すなわち、おカネの伸び率は、バブル期に比べれば落ちたものの、それでも毎年2~3%程度増え続けています。しかし、インフレ率はその半分にも届かないのです。なぜなら、おカネが増えても、使う人が少ないからです。これは「おカネ信用説」では説明できません。
つまり、信用ではなく、おカネの価値は市場原理で決まります。需要と供給の関係です。需要に対して供給が多ければ、おカネの物価はあがり(デフレ)、需要に対して供給が少なければ、おカネの価値は下がります(インフレ)。仮におカネが増えても、需要が増えなければ、おカネの価値は下がらないのです。もちろん、グローバリスムが発達した今日は、貿易や為替といった要因が絡んでくるため、単純ではありません。
しかし、基本的なおカネの価値決定のメカニズムは、需要と供給の関係にあります。信用というあいまいな概念で説明できるものではありません。信用のあるなしは、口先三寸で、どうとでも言えてしまうからです。
次に、通貨の価値を、財との交換の保証であると定義するなら、それは「法定通貨」であり、「強制通用力」になります。法律と国家による強制力によって交換が保証されています。ですから、強制通用力が通貨の信用である、と表現するならアリだと思います。法貨でなければ、保証は低いものになります。
例えば、市中銀行は信用創造によって、事実上、恣意的に通貨を発行しており、いわば「信用の水増し」を堂々と行なっています。しかし、それら銀行が発行する信用通貨が信用力を有するのは、それが「法定通貨」だと法律で認められているからです。
銀行と言うシステムが誕生した昔の時代では、銀行の発行する銀行券(通貨)は、法定通貨ではなく、それぞれの銀行ごとに違ったものでした。国家権力による保証はありませんので、その価値を保証するには金(ゴールド)との交換が可能である必要があり、ゆえに、銀行券は兌換紙幣である必要がありました。
といっても、銀行は、兌換に必要十分な量のゴールドを保有しているわけではないため、取り付け騒ぎが生じると、預金封鎖がおきます。そもそも、信用と言っても綱渡りなのです。
今日の銀行システムでは、法律によって強制的におカネの信用が担保されています。そのため、ゴールドによる裏付けは必要なくなりました。
しかし、法律は日本国というシステムがなければ強制力を失いますので、日本国がおカネの信用の要になります。そして、途上国に比べて日本の通貨が圧倒的に高い価値を有するのは、日本の経済力がとても大きくて生産性が高いからです。もし、カネ不足によるデフレを放置し続ければ、やがて日本経済がガタガタになってしまうでしょう。それこそが、おカネの価値を低下させる原因になるのです。
しかし、そうしたメカニズムも、「信用のあるなし」で説明することはできません。なにしろ、おカネを発行したら、信用が薄まるという理屈しかないからです。